名を思い出す

人の名前をよく忘れる。しかし、忘れた名前をなんとか思い出そうとするのは比較的好きだ。まずは、「あ」から順に五十音を一文字ずつたどり、その名の頭文字を探す。これは大抵失敗する。そこでこんどは、名の雰囲気をあたまに思い浮かべつつ、また五十音をたどる。すると、「やま」とか「さか」とか、ある音のまとまりが引っかかる、近づいている気がしてくる。そして、これだと思われる音のまとまりの前後に何がつくかを探して、名の雰囲気をたよりに再び五十音をたどる。結果、その人の「名前」が思い出され、ああそうか、確かにこんな名前だったなと納得する反面、あの人は、はたして本当にこんな名前だっただろうかと不安になる。もはや確認するすべもなく、心もとない。

 

記憶にはグラデーションがある。正確には、記憶の内容を思い出す今との結びつきの強さに度合いがある(ように思われる)。しかし、記憶の度合いの強さは、結果思い出されたものが本当に思い出されるべきものであったかどうかを保障しない。では、思い出すということは、いったいなにをしたことになるのだろうか。

「暴力」論関連

 

暴力階級とは何か: 情勢下の政治哲学2011-2015

暴力階級とは何か: 情勢下の政治哲学2011-2015

 

   

暴力論〈上〉 (岩波文庫)

暴力論〈上〉 (岩波文庫)

 

 別のなにかに置きかえることなく「暴力」そのものについて思考したい。しかし、暴力を非暴力化(ゼネスト、生権力、監視社会論等々)することなく、また単なる物理的な力と解する(暴力起源論、攻撃・防衛本能論はこちらに分類されるだろうか)のでもない仕方で、「暴力」とは何なのかを考察したものが以外に見当たらない。後者のソレル、ベンヤミン『暴力批判論』(また、アガンベン・シュミット)はとりあえず押さえておくとして、廣瀬さんの新刊をまずは足がかりにしてみたい。

 

同時に、「暴力」の対義語を「正義」と取れば、デリダフーコーをはじめとする一連の正義論も参考になるだろうし(そう考えると、「正義」もまた、何かによって代表したり置換することなくそれ自体について思考するのが困難なものだ)、ブランキズム、ロシア革命史、パリコミューン、スターリニズムファシズム、大衆論(ライヒ、ボエシ)、戦争論クラウゼヴィッツ、クラストル)「戦争機械」(ドゥルーズガタリ)に関する勉強を要する。とまれ、以下、今思いつくままに文献メモ。

 

無題

  

 前評判どおり素晴らしい本でした。厳密に論理にしたがって、稠密な議論が展開され、ひとつの理論体系が構築されていくのだが、その「運命論」には祈りや諦め、さらには、論理をつねに超過する現実が文字どおり織り込まれていく(「あるようにあり、なるようになる」の交錯配列の部分を参照)。結果的に「現実」を救済する「運命論」となっている。

 

また、著者の意図とはまったく別に、僕自身はこれを、ドゥルーズ『差異と反復』の副読本として読んだ。冒頭にある「普遍・一般・特殊・個別」の概念のずらし方、特異点としての現在(から、その「すべての時点が、それぞれに無限回の特異性を含みつつ、しかも完全に平等化」する「無時間的な現在」=「永遠の現在」へのステップ)など、両著作は共通する課題に取り組んでいる。とりわけ、『差異と反復』第二章の時間論は、第一の時間から第二の時間への移行は、過去・現在・未来の相対的等価と時間推移の絶対性(「時間原理I」)の組み合わせ、「タガの外れた未来」である第三の時間は、時間推移を「未来→過去」ではなく「未来←過去」によって可能となる絶対的に「無としての未来」だ、というように対応づけることができるし、そこで働いている論理を明確に記述されている。『差異と反復』の時間論について、入不二氏による説明以上のことを何か言うことは(さしあたり)できないと思う。

 

ジョーカー(絶対悪)とダークナイト(正義)のアポリア

 

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

 

 デリダを熱心に読んでこなかった者にとっても、「反復可能性」や「不可能なものの可能性」といったタームとそのロジック(レトリック)が馴染みあるものであるということは、それだけデリダの哲学・概念がもはや一般常識化し、広く普及したということなのだろう。

「…特異な他者への関係である正義は、現実世界では「法の力」がなければまったく無力である。正義なき法=権利は盲目であるが、法=権利なき正義は空虚なのだ。」(213)

 

「言語も法も、特異な他者への暴力を含んでいる。他者への関係、社会そのものの創設と維持にかかわる根源的暴力である。だが、言語も法もその全面的廃棄は最悪の暴力につながる以上、われわれは「暴力のエコノミー」のなかから、「最小の暴力」をとおして「際限なく正義のほうへ向かっていくほかはない」。言語(ロゴス)の脱構築も、法=権利の脱構築も、あの「暴力に対抗する暴力」として以外には遂行されえないのだ。」(214)

 呼びかける他者との関係を全面的に拒絶することはまた「絶対悪」と呼ばれるが、こうしたありえないこと(不可能)がありうる(可能である)ということによって「正義」が望ましいものとなりうる。

 

この部分を読んでいて思いかえしていたのは『ダークナイト』についてである。このシリーズがとても好きなのだが、観ていていつも考えさせられるのは、いずれも法=権利を超越した絶対悪(ジョーカー)と絶対正義(バットマン)が対峙したとき、必然的に悪が勝つということである。絶対悪と絶対正義が互いを必要とせざるをえないこと、正義はつねに個別よりも「法」を選択せざるをえないこと(恋人レイチェルの死よりも法の象徴ハービー・デントの存続を優先することと、イサクを生贄に捧げるアブラハム)、法のもとでの正義と超法規的正義のあいだで揺れるバットマンなど、デリダが提起する問題をうまく映像化しているものだと思う。

無題

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 シェイクスピアの時代に、同様の才能をもった妹ジュディスがいたならば、という「フィクション」をウルフは提示する。もちろんこれは、どれほど才能に恵まれていたとしても、女性であるということだけで、芸術や文学の領域において認められないどころか、女性は(当時)、男性と同じ教育、娯楽すらも享受することが許されず、世間(男性)から冷遇されるという例なのだが、やはりこの「フィクション」の部分そのものが読ませるものになっている。

 

もちろん、本書が、女性論・フェミニズム論として読める(読まれてきた)というのは分かる。しかし、それでもウルフの眼目はフィクション論(読み手ではなく書き手の側)にあるように思う。ひとがものを書くとき、男性であれ女性であれ、自分の性別を考えながら書くのは致命的であり、「女性であって男らしいか、男性であって女らしくなくてはならない」(179)。これは、単に女性性と男性性を対比させて、それらの割合を調整しましょうということではない。むしろ、二つの性の対比が想定されるあらゆることがら(恋愛、生殖、出産、育児、家事、労働、扶養など)すべてから解放されていることが小説を創造するためには必要だということである。コールリッジの「偉大な精神は両性具有である」という表現についてこう述べられる。

たぶん両性具有の精神は、片方の性別だけの精神と比べると、男女の区別をつけない傾向にあります。コールリッジがたぶん言おうとしていたのはこうです。両性具有の精神は共鳴しやすく多孔質である。何に妨げられることもなく感情を伝達する。無理をしなくても創造的で、白熱していて未分割である。(170-171)

そのためには作家は「自由でなくてはならず、静謐でなければなりません。車輪一つきしんでもいけないし、光がちらっと差し込んでもいけません。カーテンはしっかり閉めておかねばなりません」(180)。だからこそ「年収五百ポンド」と「自分ひとりの部屋」が必要なのだ。ひとが語り、描くべきは、「個々人の小さな別々の生のことではなく、本当の生、共通の生」(196)である。わたしたちは、男性と女性、他者との関係によって理解される世界だけでなく、それらから解放された「現実」世界ともかかわっているのであり、作家はこの「現実」世界を事実として受け入れ、「薔薇の花を摘み、川を白鳥が静かに泳いでいくのを見ていなければならない」(180)。『自分ひとりの部屋』を、女性の芸術創作のためには経済的安定が必要だという議論に落としてはならないと思う。

無題

 いろいろ読みたい(読むべき)本が山積しているのだが、到底時間がなく、あれもこれもできないので、とりあえず、今月のこりは、『差異と反復』読みとシュネル本に絞る。

カントは、認識対象は現象であって物自体ではないことが必要だということからはじめるのだが、これは、ヒュームの懐疑論独断論的合理主義のアポリアに陥ることを避けるためである。実際、問題となるのは、予定調和(ライプニッツ)や生得観念(デカルト)などを条件として制定する(stipuler)必要なしに、(ヒュームに反して)普遍的かつアプリオリな必然性を認識対象が運搬するのを論証することである。(中略)カントによって提示された解決策は、現象であるかぎりでの対象を認識する可能性の条件を提供し、唯一かつ同一の形式が、統覚における現象の統一と、(アプリオリな)概念によって思考されるかぎりでのアプリオリな対象の統一とを、同時に保証することを示すことにある。なるほど、一方で、この〔認識の〕対象が「私に対して与えられる」(en moi)現象である、すなわち、同一的な私の「自己(Selbst)」による規定であるならば、対象は、恒常的な仕方で、同一的な統覚のなかで、必然的に統合されることになる(そうでなければ、対象は、「私にとっての」(pour moi)対象とはならないだろう)。他方で、この統覚の統一は、対象の(あらゆる認識の)形式でもある、というのも、(カテゴリーを介して与えられる)この統一のおかげで、多様は唯一かつ同一の対象に統合されるからだ。したがって、超越論的統覚のなかで、また、それを介することによって、私たちが多様についてもつ意識は、アプリオリな対象についての形式的な「認識」と同一となり、また、これによってカテゴリーの演繹が、実際に、経験の対象を認識する可能性の条件を打ち立ていることを、私たちは理解する。

Alexander Schnell, En deçà du sujet, puf, 2010, pp. 53-54.

 

 

 

無題

福谷茂「ヘノロジカル・カント」(『日本カント研究13』所収、理想社、2012年)

形而上学を存在論から切り離し、存在よりも「一」〔ト・ヘン〕を根元的なものとしてとらえ、「一」と「多」のあいだの関係・論理に関心を集中する学として提唱されるのが「ヘノロジー」。

「新プラトン主義を「流出(emanatio)」というタームによって象徴してそのいわば自働的な性格を強調し、意志的決断を本質とするキリスト教の「創造(creatio)」と峻別するという論点はキリスト教の護教論として組み立てられたものであり、新プラトン主義のロジックとしての面に焦点を合わせたものではない。むしろ逸らせることになった。」(11頁)

 

ヘノロジーの観点からカントを(ひいては形而上学史、哲学史を)読み替える。『私は考える』はすべての私の表象に伴うことができねばならない」という命題は、「私は考える」(統覚の統一=Einheit)と「すべての私の表象(alle meine Vorstellungen)(「多」である「他」)との間に成り立つ形而上学的関係を表している。

 

「一」が「多」を吸収して「多」を解消してしまうのでもなく、逆に「一」と「多」がまったくばらばらであって単に偶然的にしかかかわれないのでもなく、「一」が「一」でありながらしかも「多」にくまなく浸透しているというまさにヘノロジカルな状況をこの苦心の表現の一語一語が語っているのである。そしてそれが経験と認識の成立という意味を持つ。ヘノロジカル・カントという所以である。(16頁)