無題

 いろいろ読みたい(読むべき)本が山積しているのだが、到底時間がなく、あれもこれもできないので、とりあえず、今月のこりは、『差異と反復』読みとシュネル本に絞る。

カントは、認識対象は現象であって物自体ではないことが必要だということからはじめるのだが、これは、ヒュームの懐疑論独断論的合理主義のアポリアに陥ることを避けるためである。実際、問題となるのは、予定調和(ライプニッツ)や生得観念(デカルト)などを条件として制定する(stipuler)必要なしに、(ヒュームに反して)普遍的かつアプリオリな必然性を認識対象が運搬するのを論証することである。(中略)カントによって提示された解決策は、現象であるかぎりでの対象を認識する可能性の条件を提供し、唯一かつ同一の形式が、統覚における現象の統一と、(アプリオリな)概念によって思考されるかぎりでのアプリオリな対象の統一とを、同時に保証することを示すことにある。なるほど、一方で、この〔認識の〕対象が「私に対して与えられる」(en moi)現象である、すなわち、同一的な私の「自己(Selbst)」による規定であるならば、対象は、恒常的な仕方で、同一的な統覚のなかで、必然的に統合されることになる(そうでなければ、対象は、「私にとっての」(pour moi)対象とはならないだろう)。他方で、この統覚の統一は、対象の(あらゆる認識の)形式でもある、というのも、(カテゴリーを介して与えられる)この統一のおかげで、多様は唯一かつ同一の対象に統合されるからだ。したがって、超越論的統覚のなかで、また、それを介することによって、私たちが多様についてもつ意識は、アプリオリな対象についての形式的な「認識」と同一となり、また、これによってカテゴリーの演繹が、実際に、経験の対象を認識する可能性の条件を打ち立ていることを、私たちは理解する。

Alexander Schnell, En deçà du sujet, puf, 2010, pp. 53-54.