無題

福谷茂「ヘノロジカル・カント」(『日本カント研究13』所収、理想社、2012年)

形而上学を存在論から切り離し、存在よりも「一」〔ト・ヘン〕を根元的なものとしてとらえ、「一」と「多」のあいだの関係・論理に関心を集中する学として提唱されるのが「ヘノロジー」。

「新プラトン主義を「流出(emanatio)」というタームによって象徴してそのいわば自働的な性格を強調し、意志的決断を本質とするキリスト教の「創造(creatio)」と峻別するという論点はキリスト教の護教論として組み立てられたものであり、新プラトン主義のロジックとしての面に焦点を合わせたものではない。むしろ逸らせることになった。」(11頁)

 

ヘノロジーの観点からカントを(ひいては形而上学史、哲学史を)読み替える。『私は考える』はすべての私の表象に伴うことができねばならない」という命題は、「私は考える」(統覚の統一=Einheit)と「すべての私の表象(alle meine Vorstellungen)(「多」である「他」)との間に成り立つ形而上学的関係を表している。

 

「一」が「多」を吸収して「多」を解消してしまうのでもなく、逆に「一」と「多」がまったくばらばらであって単に偶然的にしかかかわれないのでもなく、「一」が「一」でありながらしかも「多」にくまなく浸透しているというまさにヘノロジカルな状況をこの苦心の表現の一語一語が語っているのである。そしてそれが経験と認識の成立という意味を持つ。ヘノロジカル・カントという所以である。(16頁)