無題

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 シェイクスピアの時代に、同様の才能をもった妹ジュディスがいたならば、という「フィクション」をウルフは提示する。もちろんこれは、どれほど才能に恵まれていたとしても、女性であるということだけで、芸術や文学の領域において認められないどころか、女性は(当時)、男性と同じ教育、娯楽すらも享受することが許されず、世間(男性)から冷遇されるという例なのだが、やはりこの「フィクション」の部分そのものが読ませるものになっている。

 

もちろん、本書が、女性論・フェミニズム論として読める(読まれてきた)というのは分かる。しかし、それでもウルフの眼目はフィクション論(読み手ではなく書き手の側)にあるように思う。ひとがものを書くとき、男性であれ女性であれ、自分の性別を考えながら書くのは致命的であり、「女性であって男らしいか、男性であって女らしくなくてはならない」(179)。これは、単に女性性と男性性を対比させて、それらの割合を調整しましょうということではない。むしろ、二つの性の対比が想定されるあらゆることがら(恋愛、生殖、出産、育児、家事、労働、扶養など)すべてから解放されていることが小説を創造するためには必要だということである。コールリッジの「偉大な精神は両性具有である」という表現についてこう述べられる。

たぶん両性具有の精神は、片方の性別だけの精神と比べると、男女の区別をつけない傾向にあります。コールリッジがたぶん言おうとしていたのはこうです。両性具有の精神は共鳴しやすく多孔質である。何に妨げられることもなく感情を伝達する。無理をしなくても創造的で、白熱していて未分割である。(170-171)

そのためには作家は「自由でなくてはならず、静謐でなければなりません。車輪一つきしんでもいけないし、光がちらっと差し込んでもいけません。カーテンはしっかり閉めておかねばなりません」(180)。だからこそ「年収五百ポンド」と「自分ひとりの部屋」が必要なのだ。ひとが語り、描くべきは、「個々人の小さな別々の生のことではなく、本当の生、共通の生」(196)である。わたしたちは、男性と女性、他者との関係によって理解される世界だけでなく、それらから解放された「現実」世界ともかかわっているのであり、作家はこの「現実」世界を事実として受け入れ、「薔薇の花を摘み、川を白鳥が静かに泳いでいくのを見ていなければならない」(180)。『自分ひとりの部屋』を、女性の芸術創作のためには経済的安定が必要だという議論に落としてはならないと思う。