ジョーカー(絶対悪)とダークナイト(正義)のアポリア

 

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

 

 デリダを熱心に読んでこなかった者にとっても、「反復可能性」や「不可能なものの可能性」といったタームとそのロジック(レトリック)が馴染みあるものであるということは、それだけデリダの哲学・概念がもはや一般常識化し、広く普及したということなのだろう。

「…特異な他者への関係である正義は、現実世界では「法の力」がなければまったく無力である。正義なき法=権利は盲目であるが、法=権利なき正義は空虚なのだ。」(213)

 

「言語も法も、特異な他者への暴力を含んでいる。他者への関係、社会そのものの創設と維持にかかわる根源的暴力である。だが、言語も法もその全面的廃棄は最悪の暴力につながる以上、われわれは「暴力のエコノミー」のなかから、「最小の暴力」をとおして「際限なく正義のほうへ向かっていくほかはない」。言語(ロゴス)の脱構築も、法=権利の脱構築も、あの「暴力に対抗する暴力」として以外には遂行されえないのだ。」(214)

 呼びかける他者との関係を全面的に拒絶することはまた「絶対悪」と呼ばれるが、こうしたありえないこと(不可能)がありうる(可能である)ということによって「正義」が望ましいものとなりうる。

 

この部分を読んでいて思いかえしていたのは『ダークナイト』についてである。このシリーズがとても好きなのだが、観ていていつも考えさせられるのは、いずれも法=権利を超越した絶対悪(ジョーカー)と絶対正義(バットマン)が対峙したとき、必然的に悪が勝つということである。絶対悪と絶対正義が互いを必要とせざるをえないこと、正義はつねに個別よりも「法」を選択せざるをえないこと(恋人レイチェルの死よりも法の象徴ハービー・デントの存続を優先することと、イサクを生贄に捧げるアブラハム)、法のもとでの正義と超法規的正義のあいだで揺れるバットマンなど、デリダが提起する問題をうまく映像化しているものだと思う。