雑感

3月19日(土)

  • 午後からは、恩師にお誘いいただいた関西唯物論研究会に参加すべく、あべのハルカスへと向かう。このような若輩者が混じってよいものか恐縮しながら、メイヤスーの『有限性の後で』についての発表を聞く。本書で展開されている詳細な議論は措かざるをえないとして、たとえば「自然法則もふくめ、あらゆるすべては偶然であるということだけが必然である」というテーゼそれ自体を、相関主義的なこれまでの哲学は(たとえば思考不可能性や認識不可能性に還元してしまい)思考することができない。メイヤスーの主眼は、そのような相関主義を離れた(適切には相関主義の内側から突破し到達しうる)思考を取り出すことにあるのだか、いわば、「思考そのもの」であるそれは、はたしてどのようなものであるのか。これが明確にされれば、メイヤスーの一連の議論の真価を判定することができるように思う。しかし他の会員の方もおっしゃっていたが、『有限性の後で』では(集合論を介して示唆されてはいるが)この思考そのものがなんであるのかをメイヤスーは積極的に提示していないのではないか。個人的には、そこにおいて中心となるのが正義(倫理)や救済の議論であるように思う。
  • 先生とともに帰りの電車内で話していたのは、相関主義的でない(ということはつまり有限である主観なき)思考そのものというのは、ある種、シェリングの知的直観(神的直観)の議論に重なり、ドイツ観念論的文脈がメイヤスーの議論を引き受けるのも分かる。そこで、「では誰か思考するのか」という問いに、おそらくメイヤスーなら「思考そのものである」と応えるだろうが、ドゥルーズであれば「世界、鉱物、植物すべてが思考する」と応えるだろうし、そこで両者は対立するのでは、などということであった。

 

3月22日(火)

  • 北大路のスタバでマルディネの読書会。二つある対談のうち前半が次週で終わるが、後半はそれほど目新しい議論がなされているわけではないため、次はRegard, parole, espace(Cerf, 2012)のリズム論に入ろうかと思う。