印象派の絵画はそんなに接近して見てもなんだかわかりません

京都市美術館にて開催されていたボストン美術館展に行く。日曜かつ最終日ということもあり、尋常ではない人の量。個人的な印象としては、数年前のルーブル展の三分のニ程度の込み具合とはいえ、じっくり鑑賞するのは難しい。ピカソには世界がこう見えているんだ、や、本物みたいにキレイ、などの雑音に辟易しながらも(ベラスケスかなにかの肖像画を前にして、「髪が短い」と言った子供のセンスは良い)、いくつかの作品には感銘を受けつつじっくりと見ることができた。特にオランダ絵画の光の描き方には考えさせられるものがあった。

(出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emanuel_de_Witte_005.jpg
印象派のように、見る側の統覚作用によって「見える」経験を再構成する*1のでもなく、かといって、陰影は経験的対象であるが、光は経験的対象ではないがゆえに、写実主義とも異なる。光を光として描くための技術。



鎌と微笑みと曇り空
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー、《鎌を持つ草刈り人》

*1:メルロ=ポンティが『眼と精神』(1970年、みずず書房)で述べているように、こうした経験を派生的なものとし、「奥行き」という「他の諸次元を包含するような次元」(286)を追及したセザンヌはここで言う印象派には含まれない。