雑感

前期試験、採点もようやく終わり、完全に夏期休暇に入った。なりふり構わず論文書きに精を出さねばならないが、今一つ。

 

  • 荒畑靖宏、「超越論的有限性としての時間について――ハイデガーのカント改釈――」、『哲學』第103集、慶應義塾大学三田哲学会編、1998年。
  • Jeffrey A. Bell, Deleuze's Hume: Philosophy, Culture and the Scottish Enlightement, Edinburgh, Edinburgh University Press, 2009.

 

後者のヒューム論はそういえば読んでいなかったので、前半部を少し。まったく(とは言わないが)論証なしに書くが、ドゥルーズの『経験論と主体性』はおそらくハイデガーのパロディである。

 ドゥルーズもどこかで言っていたと思うが、ヒューム自身は主体や主観性について明示的に論じてはいない。ではなぜドゥルーズは「主観性」を問題としたのか。『経験論と主体性』の根本的な問いは、「単なる所与のコレクションが、どのように当の所与の内部においてシステム(主観)となるのか」というものであり、それがこの本の主題である。言うまでもなく、これはカントの問いである。すなわちドゥルーズは、カント的な超越論哲学の要である超越論的主観性(統覚)の発生の問題を、ヒュームの経験論から論じようとしている。そして、周知のようにハイデガーは『カントと形而上学の問題』において、さらにその超越論的主観性の条件を、超越論的構想力に見出した。ハイデガーと同様、『経験論と主体性』においても、構想力(ヒュームにおいては想像力)の位置づけが問われることになる。

もちろん、ドゥルーズハイデガーは完全に一致するわけではない。ハイデガーは『純粋理性批判』第二版の「純粋悟性概念の演繹」の部分を批判し、第一版のいわゆる「心理主義的」なカントを称賛する。しかし、少なくとも、ドゥルーズがこの点に同意することはないだろう。むしろ、超越論的に機能する主体の条件は、構想力においてではなく、合目的性や習慣(これらは信念、発明によって生産される)といった、心理主義的な主体の外部に求められることになる(ヴァール由来の「関係の外在性」もここで利いてくるのではないか)。

ドゥルーズが、1956年前後にはハイデガーのカント書を読んでいることは確実だが(56-57年の講義参照)、1953年に発表された『経験論と主体性』の執筆時に読んでいたかは定かではない(しかし、読んでいなかったとしても、ヴァールの講義で耳にしていた可能性はあるだろうし、内容上、そう考える方が妥当である)。何が言いたいかというと、つまり、『経験論と主体性』が論じているのは、ハイデガーと同様(その形而上学の基礎づけを低く見積もって言えば)、われわれの経験の可能性の条件を問う超越論哲学の枠内に収まる話であって、ジェフリー・ベルが言うようなドゥルーズ固有の「超越論的経験論」ではないということだ。それでは単に、カント哲学に追従しているに過ぎない。おそらくどこにドゥルーズ固有の論点があるのかを示す必要があるだろう。

 

あと、付け加えれば、『経験論と主体性』は日本で言う修士論文にあたるものであり、実際、それが出版されるに当たり、どの程度加筆され、変更されたのかは定かでない。ドゥルーズだって人の子、単行本となる処女作なのだから、まさかそのまま出版するとは思えないのだが。。。原資料が今のところないので確定的なことは言えない。