ミシェル・フーコー、「汚辱に塗れた人々の生」、『フーコー・コレクション6生政治・統治』所収、小林康夫ほか訳、ちくま学芸文庫、2006年。

権力はいかにして日常に入り込むのか。
キリスト教的西欧は「告解」によって、「日々の世界の細片、平凡な過ち、知覚しがたいほどの過誤、そしてまた思考や意図や欲望のあやしげな同様にいたるまでを」(218)言表することを人々に義務づけた。
しかし17世紀の末以降、このような権力の宗教的配置は行政的配置へと拡張される。すなわち、告解によって語られた言表は、「すべて文書に記載され、集積され、ファイル記録や保存文書」によって蓄積されるようになる。フーコーはここに、権力とディスクールと日常のあらたな編成を見出す。フーコーは、王に対する監禁命令封印状を事例に挙げている。この文書は、放蕩、姦淫、不敬虔なる者に対して監禁の勧告を要請するのだが、実はこの文書が専制君主自身によって「上から下に」発行されることはきわめて稀であった。すなわち、その大部分は、監禁される者の「周囲にいる者たち、父や母、親族の誰か、その家族、息子たち或いは娘たち、隣人たち」(220)などの懇願によって発行されたのだ。専制君主の絶対的権力の顕現である監禁命令は、その実、こうした下方からの懇願に対する応答なのである。さらに、警察は、その懇願の正当性を判定するために、監禁される者の周囲で情報を収集する。
ここにフーコーは、単なる権力の介入ではなく、「複雑な循環に従って、その要求と応答のあらゆる戯れの中に存在した権力使用の配置」(221)を見出す。下方の者たちが、他の者に対する絶対的権力の行使を自らの力とすることができるこの配置、つまり「主権のメカニズムを好きなように使わせるような配置」は、次のような帰結をもたらす。すなわち、「政治的主権が社会全体のもっとも基底的な水準に配置されていくということである」(222)。こうして権力は、日常に入り込む以上に、人々の日常と複雑に交錯しあう様相をとることになる。人々は権力を自らのものとするために権力を望み、かつ、日常生活に介入するこの権力は有用であるがゆえに「憎悪の対象」にもなる。したがって、あらゆる修辞的表現、奇妙な演劇性を伴いながら「権力は人々をそそのかし刺激し」、さまざまなディスクールを生産する。ここにあるのは単なる絶対的不可侵性をそなえた権力ではない。なぜなら、「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう」(230)からだ。