腕が挙がる

本日の授業で「腕を挙げる」ことが話題となった。
そもそも「腕を挙げる」という言明は次のことを含意している。

  1. なんらかの心的原因が物理的状態の変化を引き起こしたこと。
  2. 「腕を挙げる」ためには腕以外の身体全体が固定されていること。
  3. 腕を部分とする身体が、頭から足を垂直とする空間座標に定位されていること。
  4. 地球の自転等、複数の外的要因を排除すること。

つまり「腕を挙げる」は、異なる水準の要因を混在した言明であり、(そんなものがあるとすればだが)純粋な観察記述ではない。
これらを考慮して件の言明を言い換えると、
「筋肉が(相対的に)弛緩した状態から、筋肉が(相対的に)収縮した」
これが「腕を挙げる」という事態である。ここには筋肉の収縮があるだけである。つまり、ある事物の状態(l'etat des choses)から別の事物の状態への移行があるだけであり、「腕が挙がる(腕を挙げる)」という出来事(un 〓v〓nement)はそうした物理的水準における原因によって引き起こされるものではない。逆に言えば、われわれの日常的な経験(知覚-認識的なレベルにおいても、言語-政治的なレベルにおいても)を構成している大部分は出来事の水準である。「意味の論理(logique du sens)」はそこで機能している。

※「腕を挙げる」ことに関して、小泉先生のブログのエントリを再読しました。
  「手を上げる/手が上がる」のリハビリhttp://d.hatena.ne.jp/desdel/20071103


あと脳が痛みを感じないのは、痛みというものが局在化(人称化)と内的感覚を必要とすること、さらに脳自体が表面だからというラインで考えなければ・・・などという話もしたいけれど、また今度。