川上未映子「ヘヴン」

群像 2009年 08月号 [雑誌]

群像 2009年 08月号 [雑誌]

主人公である斜視の僕と、不潔な身なりをしたコジマという女の子。彼らは日常的にクラスメイトから不当な「苛め」を受けている。しかしこの「苛め」ということばで、彼らが日常的に被っている集団的な暴力を掬い取ることは困難だ。なぜなら、「苛める」「苛められる」ということばは、すぐさま「なぜ苛めるのか」「なぜ苛められるのか」という問いを要求するが、この暴力の後ろにはいかなる信条もいかなる根拠もありはしないからだ。それはそこにたまたま暴力的な欲求があり、そこにたまたま居合わせた者が、たまたま被る被害以外の何もない。「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」というクラスメイトのセリフがそれを示している。したがって、どうしてこれほどまで無意味な行為ができるのか、なんの権利があって僕らに暴力を振るうのかと問いはそもそも問いとして機能しないし、彼らを牽制する力もない。こうした世界において不当な暴力を「現実的に」被る特定の人間はどう行動すべきなのか。

興味深いことに、この「ヘヴン」という小説は、図らずも村上春樹の「1Q84」と同じテーマを描き出している。それはどちらも、運命であれ、世界というシステムであれ、自分たちの意志や行為によっては決して変えられない不可避的な現実―――なぜならこの現実を構成しているものこそわれわれ以外の何ものでもないのだから―――に直面したとき(あるいはそれを意識したとき)、そこから逃げ出すのではなく、無条件にそれを引き受けることができるほどの「信仰」を持つことができるのか、あるいは何かを「信じる」ことができるのかということを問うている。それが愛であろうが神であろうが呼び名はどうでもよい。「信仰」や「信じること」、あるいは「他者とのつながり」はつねに無定形であり目に見えるものではない。しかしときに、それらはわたしたちに「しるし」を与えることがある。あるときはそれは斜視や不潔さであり、いびつな形をした「二つの月」であったりするだろう。