『差異と反復』,『意味の論理学』を代表としたドゥルーズの初期作品群はいわば「構造主義」的影響下において執筆されたと言われる.さて,この場合の「構造主義」とは,いったい何を指しているのか.フーコーによる「知の考古学」か,ヤコブソンやトゥルベツコイらによる構造主義言語学か,レヴィ=ストロース構造主義人類学だろうか.これら多岐にわたる学問領域,その理論的対象の多様さのなかに,なんらかの共通性を見出すことができるのだろうか.

やや一般的な視点から構造主義を俯瞰してみれば,それが歴史と体系を巡る問題系を巡って展開していたことがわかる.レヴィ=ストロースは,体系の論理的整合性と,出来事の偶発性,その対象の複雑さによる歴史の二律背反を包括的に克服する弁証法的理性を,フーコーは歴史的形成物である言説において,それを生産する言表間の偏差,差異による統語論的規則から構成されるシステム(言説形成体の実定性(positivité de la formation discursive))を問題とした.


だとすれば,歴史,これを便宜上,偶発的なもろもろの出来事の連続的展開であり,もろもろの体系における構造の理念的形式性と対比的に位置づけられるものであるとすると,このような歴史観を退け,純粋な出来事における生成,潜在的な理念の現実化といった問題系において自らの理論形成を行うドゥルーズを「構造主義」として形容するその内実はきわめて不明瞭になる.また,ドゥルーズ構造主義における言語学モデル(ソシュールを念頭に置くのであれば,古典的言語学における語幹変化,その通時的研究に対して,言語学をひとつの科学として成立させるために,言語体系の共時的静態性を強調した,ソシュール言語学の関係性も考察しなければならない)を批判しており,そもそも彼が構造主義として念頭に置いているのは,数学における構造の発生論である.ドゥルーズ構造主義(理解)を一般的な構造主義的潮流と直結させることは困難であると思われる.

したがってわれわれは,ドゥルーズのどこが構造主義的であるのか,はたしてそれが一般的な構造主義の理解と共通性を持つのか(もっといえば,一般的な構造主義的理解は,構造主義として形容される思考に本当に届いているのか),つまり,言語学をモデルとしたメジャーな構造主義レヴィ=ストロース,ラカン,フーコー)と,ドゥルーズが直接的に関連するマイナーな構造主義(エピステモロジー,ジルベルト・シモンドン,マルシアル・ゲルー)との相異,距離感を明らかにし,そこからいかにしてドゥルーズ構造主義的システム論が形成されてきたのかを理解しなければならない.


まずは,「何を構造主義として認めるか」における,構造主義の脱言語学モデル化,『差異と反復』の数学における構造主義的発生論,『意味の論理学』における異質な二重のセリーとパラドクス的対象による構造の規定といった議論を軸に,ドゥルーズにおける構造主義を再構築しなければならない.