今日はパリ8のフレデリック・ランボー氏による「ドゥルーズと主観性」に関する講義へ。ドゥルーズにとって「主観性」(subjectivité)ないし「主体化」(subjectivation)の議論が重要であることは言わずもがなであるが、ランボー氏はそれを(1)政治、(2)欲望、(3)個体という観点に分けて考察する。そして、それら各々が、フーコー、ラカン、ドゥルーズの「主観性」に対応している。本日は、ベンサム由来の「パノプティコン」と、ドゥルーズによるダイアグラムの関連について論じておられた。ややおおざっぱな議論である印象を受けたので友達に聞いてみると、彼も「なんだかバカロレア対策の講義みたいだった」と言っていた。

おそらくドゥルーズは、フーコーから「パノプティコン」という概念を直接借用しているわけではない。例えば、スピノザ(ゲルー)の「思考の秩序」であるとか、パース(もちろん、「ダイアグラム」という概念を用いている)の推論形式などが直接の参照項であろう(もちろん、裏はとっていない)。
フーコーの「パノプティコン」の議論は、全てが現実的事物として現前しており、その裏に何か総括する主体や隠れた実体などありはしない、というのが肝であって、現実的に(無論、歴史的にも)現前することなく機能する(「機能する」という語も、概念内容を規定しようとなると難しいのだが、いわゆる二元論的次元(形式/物質、可視的なもの/言表可能なもの、表現/内容など)を分節化し、生じさせる、という程度の意味)「抽象機械」や潜在的な「ダイアグラム」といった概念からはむしろ離反するように思う。


  • Gilles Deleuze, Différence et Répétition., Empirisme et subjectivité.

『差異と反復』は第一章の内包と外延の部分を読んでいるが(宿題)、感覚的には分かるのだが、論理立てて考えようとするといつもつまずく。