視覚によって私はさまざまな度合の光や色の観念を持つ。触覚によって私はたとえば固さや柔らかさ、熱さや冷たさ、動きや抵抗を知覚する。それらは互いに連れ立って観察されるため、例えば「リンゴ」という一つの名で呼ばれる。とはいえそれは、これらもろもろの観念の寄せ集めなのであり、別の寄せ集めは「机」や「石」などと呼ばれるだろう。しかし、こうしたさまざまな観念、あるいは知識の対象とは別に、それらを知り、知覚する何か、あるいはそれらについて意志したり、想像したり、思い出したりすることで、さまざまな作用を行使する何かがある。

この知覚すること、活動していること、これこそ私が〈心〉、〈精神〉、〈魂〉、〈私自身〉と呼ぶものなのだ。これらの語によって私は、いかなる私の観念も示してはいない。そうではなく、私はこれら観念とは全く区別されたあるものを示しているのだ。その中で諸観念は存在するし、あるいは同じことだが、それによって諸観念は知覚される。なぜなら、ある観念が存在するということは、知覚されることにあるからだ。(Gerge Berkeley, A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge,Hackett,1982.)

バークリによると、(単純)観念が知識の対象であり、その存在を担保しているのが、観念からは「まったく区別されたあるもの」である心や精神である。


たったこれだけのことだが、非常に錯綜している。なんせ登場する概念(つまりは腑分けして考えねばならない概念)が多い。すなわち、日常的な意味での私、私が感官によって知覚する観念、単純観念と複合観念、観念の寄せ集めに対する一つの名、観念が(むろん私に)引き起こす情念、観念を知覚する心…etc。二つだけポイントを挙げる。ひとつは、日常的な私と、観念を知覚する「心」が同一ではないということである。なぜなら、日常的な意味での「私」とは、日常的な私が視覚によって知覚する「キーボードをたたく両手」であり、聴覚によって知覚する「キーボードをたたく音」であり、どこかしらの感官で知覚する「体の怠惰」といった諸観念*1の寄せ集めであり、それを「私」という名で呼んでいるにすぎないからだ。さらにこのような観念の寄せ集めである「私」は、(寄せ集められた)観念とは区別される「心」が知覚しているがゆえに存在するのであって、定義上、心のほうが日常的な私よりも先んじていなければならない。
もうひとつのポイントは、観念を知覚する心はなんらかの実体的な存在ではなく、「知覚しているということ」「知覚している働きそのもの」であるということだ。(これについてはまた考える)

私の存在、事物、知覚、情念といったものを概念的にぶっ壊すところに、バークリーの面白みを読み込みたい。

*1:ということは、この時点でもうすでに知覚と観念の関係を問題にしなければならないことになる