DG-Lab(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ)発足

9月あたりから、山森裕毅(屈折率)、小倉拓也とともに、ドゥルーズガタリに関する研究会を立ち上げる相談をしてきました。そして、大方の方向性が定まってきたのでお知らせしたいと思います。

 

「DG-Lab(ドゥルーズガタリ・ラボラトリ)」は、彼らの著作と真摯に向き合い、その実質と現代的な意義を考察することを第一の目的としています。2ヶ月に1度集まり、読書会と研究発表を行います。詳しくはホームページ(About | DG-Lab(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ)をご覧ください。

 

発足メンバーが阪大関係者ではありますが、他大学の方、ドゥルーズガタリの専門外の方(芸術、文学、政治など関心はなんでも構いません)、どなたでも参加していただきたいと考えています。一切の商業的、営利的目的のない集団です。もし、興味・関心をもたれた方がおられれば、事務局(dg-lab(at)outlook.com)にお気軽にご連絡いただければ幸いです。

雑感

今週は比較的身が空いているので、今のうちに論文を書かねばならない。次回の「現在思想の会」が担当なので、Nelson Goodman, Languages of Art, Hackett Publishing Company, 1976.を少し読み進める。

Not an object the way it is, nor all the ways it is, nor the way it looks to the mindless eye. (9)

これが全然分からず手間取った。ともあれ、「〔模写されるべき〕対象は、それが存在するその仕方ではないし、それが存在するすべての仕方でもない。またそれは、対象が、目的も関心もない眼に映るその仕方でもない」とでもなるだろうか。

年末に向けて、『差異と反復』を読み直さなければならないし、その基礎工事(裏どり?)としてヴァール関連も読み進めなければならない。あまり手を広げすぎないように。TLで見かけた「有限な時間に有限な仕事をしなければ」というのは真理だと思う。

 

世界、身体、精神の信

拒食・過食(両者は概念的に区別されるべきだ)、頭痛、カタトニー、つまり、病む身体と信仰(崇高)の問題を考えるために、シモーヌ・ヴェイユを(趣味的に)読んでいる。準備段階として以下の本を読む。図書館の本ゆえ書き込みなどできなかったが、書誌情報として。

シモーヌ・ヴェイユ

シモーヌ・ヴェイユ

 

 ヴェイユの思想的変遷を、彼女が生きた政治的状況の変化とともに丹念に記述したもの。非常に勉強になった。

すべての人間に対する義務を根拠づけるのは、個人に特有の人格ではなく、万人が共有する非人格的なものへの敬意である。「ひどい仕打ちをうけて、なかば呆然と、なかばうちのめされて、どうして〔人は私に悪をなすのか〕と問わずにはいられぬ人びとの魂のうちに、キリストは何度でも受肉する。そこにこそ人間の尊厳の根拠があるのだ」(236)。

 

甦るヴェイユ (洋泉社MC新書)

甦るヴェイユ (洋泉社MC新書)

 

「またもし若い男女たちよ。自分が学生だったら、また生涯の生活が学生の延長だとおもっているのなら、知識をあくことなく獲得すべきだ。それで他人や知的でない大衆を圧伏したり、侮辱したりするためではなく、知識は〈富〉と同じようにあっても決して恥ではないが、誇るべきものほどでもないことを、 ほんとに体得するためにだ。」(88)

ギヨーム・ルブラン講演会(於:京都薬科大学)

久しぶりに身が空いたので、また、家の近所ということもあり、京都薬科大学にて行われたギヨーム・ルブラン氏による講演会「生命倫理の考古学」に参加してきました。薬大の教員の方々を中心に30、40名ほどおられただろうか。

 

講演内で幾度か強調されていたのが、「生命の価値づけ(la valorisation de la vie)」というものであった。これが(ルブラン氏は言及しておられなかったが)いわゆるアガンベン的な生命(la vie)とただ生きるもの(les vivants)の区別、それらのあいだを分節する何か規範的なものを生産するようだ。生命倫理の発生はこの規範の生産と同時である。この意味で言えば、生政治による技術的、科学的な生命への介入は、生命の境界を確定する装置であり、あくまでもそれによって「操作してはならない不可侵の生命の基底という観念」が保持されるというポジティブな役割を果たすことになる(という趣旨だと思う)。

 

聞きながら思ったこと。ではそうした生命とただの命の区別、区分が保持される限り、つねに生命倫理から排除される命があるということだ。倫理の外部で、いわば生きるに値しない命が、再び倫理によって回収され、「尊厳死」や「死ぬ権利」といった言葉遣いによって、何かしら意義あることを言ったかのような錯覚に陥る人間の傲慢さ、そうしたきな臭い話とその趨勢についてはこれまでにさんざん言われてきていることなので今更指摘するまでもない。

ともあれ、そうした生命とただの命の区別を保持するならば、その区別を生産する「生命の価値づけ」は一体誰によって、あるいは何によって行われているのか。端的に言って、「生命の価値づけ」を誰が(何が)価値づけているのか。ルブラン氏はフーコーとカンギレムの専門ということなので、おそらくはこうした質問をしても、そうした権力主体的な問いの立て方は誤りで、「誰でもない何か」「政治的、行政的、国家間的、家族的etc...」という多領域にわたる「力」の関係性によるということになるのだろう。

 

ただ、あえて「生命の価値づけ」という概念を持ってくることに意味はある。生政治的、関係主義的な権力像、すなわち、唯一、固定的な権力の中心を措定しないような権力関係は、ある種、現在の権力像を正しく表現している。しかしこの権力像がより重要なのは、「ああ、見えない権力に取り囲まれて恐いなあ」で話が終わらないということにある。つまり、権力や抑圧の中心がなく、それが誰のものでもないということは、結果的に、その権力や抑圧の中心をすべての人間が担いうるということになる。言い換えると、人々が権力や抑圧に従うのは、誰かからの強制によってではなく、当の被抑圧者自身が欲しているからであり(欲望)、より穏やかに言えば、人々は抑圧されることを喜んで許容していることに必然的にならざるを得ないということだ。経済的に、経済産業的に、財政的に、国家間の正常化のために、教育のために、未来の子供たちのために「仕方がない」という形で、人々は喜んで権力に従属し、進んで抑圧されるし、そうされることを結果的に良しとする。ネガティブに言えば、ここに介入する(生じている)のが生権力(bio-pouvoir)だということだ。

この状況であえて「生命の価値づけ」について語ることは、仮象的にでもそこに権力の中心を見取る可能性を与えるのであって、その意味での理論的価値はあると思う。(これがルブラン氏の主意や思惑に適っているかどうかは定かではない)

 

 

雑感

 

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

 

 想定外であった。河出ブックスでしかも講義調で書かれているということなので、もっと簡易的(大衆的)な内容かと思っていた。なんのなんの、綿密に準備された『差異と反復』『アンチ・オイディプス』論である。しかし、それ以上に、ここまで小泉氏が自らの手の内を明かしたものは、かつてなかったのではないか(要するに、小泉氏がこれまで精神分析・医学関連の運動、著作、法制度の歴史的経緯、さらにはマルクス主義関連の運動、著作、学術的経緯をどのように経てきたのかを本書は丁寧に伝えている)。思われている以上に、相当の決心を持って書いておられると思う。それだけに安易に感想や意見を述べるのは難しい、というか控えるべきだと思う。

ただ、ひとつだけ述べておくならば、おそらく本書でもまだ(あえて)記されていないことがある。精神・心の病をもつとされる者(本書ではスギゾイドサイコパス)を、強制収容(治療)でも、ノーマライゼーションでもない形で、では実際にどうするのか、そのオルタナティブを(あえて)記していない(まだ「明かしていない」)と思う。正確に言えば、強制収容でも、ノーマライゼイションでもない形で、彼らと「うまくやっていた」時代について、つまり、小泉氏を含むかつての日本人が経験していた時代について、そこで実際なにが生じていたのか、それが今どのような意味を持つのかについて(あえて)記していない。そのために必要な、その歴史的、精神史的、概念史的考察がすでに準備されているのかもしれないし、すでに書き始めておられるのかもしれない。あるいは、再び、後進の世代に課題として投げられるのかもしれない。その意味でも、やはり、一読しただけであれこれ言えるような本ではない。

 

あと、もし博論執筆前にこれを読んでいたら、僕は自分の論文を書き上げられなかったかもしれない。自分が書いた言葉で言わざるをえないが、『差異と反復』、『意味の論理学』、(少なくとも部分的には)『アンチ・オイディプス』は分裂病を臨床的実体に還元していた。しかし、これは『千のプラトー』に至って完全に捨てられる。これを博論では、脱人間主義から非人間主義への変遷として記した。そして、これにともない全景化してきたのがドゥルーズに固有の「自然」(『ドゥルーズと狂気』の言い方で言えば、「第一の自然」)であったと解した。もちろん、意図的に多くの論点を捨象したとはいえ、『ドゥルーズと狂気』を読めば、この見立てがあまりに「ナイーブ」なものであることが分かる。もしかすると、これをテーゼとして博論で打ち出すことを逡巡していたかもしれない。もっと「自然」の内実を詰める必要があるということだ。

ともあれ、自分が今後論じたい(論じるべき)方向性について、この著作によって気づかされた部分は大いにある(気づかされたというか再認・確信できた)。このエントリーがこのように何を伝えたいのか分からない歯切れの悪い文章になっているのは、要するに、これから言語化すべき問題点、方向性があまりに多く入り交じっているためである。ご了承ください。

博士論文が公開されています。

大阪大学リポジトリにて、昨年提出しました博士論文が公開されているようです。

 

大阪大学リポジトリ: ドゥルーズ哲学における思想的断絶と変遷 : 自然の問題を中心に

目次

 

ドゥルーズ哲学の思想的変遷と自然哲学   

本論文の構成            

 

第I部 ドゥルーズ哲学における断絶としての自然概念             

第一章 問題の所在―『意味の論理学』と『アンチ・オイディプス』における「器官なき身体」という断絶         

序論         

第一節 メルクマールとしての「器官なき身体」       

第二節 『意味の論理学』におけるメラニー・クラインによる幼児の発達段階論        

第三節 『アンチ・オイディプス』におけるメラニー・クライン批判     

第四節 超越論的な場としての器官なき身体           

結論        

 

第二章 断絶としての自然概念

序論        

第一節 ドゥルーズ哲学における自然の主題化         

第二節 断絶としての人間と自然の同一性 

第三節 自然主義としてのドゥルーズ哲学 

 

第Ⅱ部 自然の問題から見たドゥルーズ哲学の変遷―脱人間主義から非人間主義へ 

第三章 超越論的経験論とは何か(1)―ドゥルーズによるカント哲学の読解について           

序論        

第一節 超越論哲学に対するヒューム経験論の不十分さ             

第二節 カントの超越論哲学における有限性と発生の問題―講義「基礎づけるとは何か」(1956-1957) 

第三節 カントの超越論哲学の可能性―カント哲学における合目的性と能力限界論 

結論        

 

第四章 超越論的経験論とは何か(2)―カント批判におけるベルクソン的直観の位置づけ    

序論         

第一節 カント哲学の問題点―概念と直観の分離   

第二節 カント哲学に対抗するものとしてのベルクソン哲学      

第三節 ベルクソン哲学における直観概念 

第四節 『差異と反復』における強度概念と超越論的経験論     

結論         

 

第五章 前期ドゥルーズ哲学における自然の問題―『意味の論理学』におけるエピクロス派解釈について―

序論         

第一節 前期ドゥルーズにおける自然という主題の兆し             

第二節 『意味の論理学』におけるエピクロス派の位置づけ      

第三節 存在と言語  

第四節 自然から見た超越論的経験論の問題            

結論         

 

第六章 ドゥルーズ哲学における自然の感性論         

序論         

第一節 『差異と反復』における「純粋悟性概念の演繹」批判   

第二節 主観と自然の脱中心化 

第三節 内在平面としての自然 

結論 自然の感性論としてのドゥルーズ哲学          

 

結論        

参考文献・引用文献 

 

 

書籍購入と現実逃避

次回の「哲学概論A」で話すマルクスについての講義ノートを作らねばならないのだが、つらつらと1時間以上ネットをさまよう現実逃避。しかし、家には寝食困難なほどの本があるにもかかわらず、人はなぜ新たに本を買うのか。 

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス 73)

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス 73)

 

 楽しみにしていたものではある。

Languages of Art

Languages of Art

 

 グッドマン、スペルベル、すなわち菅野盾樹先生関連のものはいずれ本腰を入れて取り組む必要がある。こちらは、《現在思想の会》用に。