博論製本
業者に依頼していた博論の製本版が届き、先日、大学へ提出してまいりました。二冊で1万円ほどしましたが、他社の半額でした。いずれ全文がインターネットで公開されるはずです。
比較的前に手にしていたものの、落ち着いて読む機会を逸していた。半分ほど読む。モーツァルト・カント・萩原朔太郎に見出される「理性の不安」(モデルニテ)。ギリシャ語の「ロゴス」がラテン語に入り分岐した「ラチオ」と「ヴェルブム」。後者がライプニッツ、ヘルダーといったバロック的な「ヴェルブム・メタフィジーク」へ、さらにはパース(のおそらくは連続主義)へと地下水脈のように連なる「千年単位の歴史の展望」(53)が披瀝される。こうしてみると、恩師のH先生がきわめて戦略的にこの坂部哲学を追随しているのがよく分かる(九鬼、時間論(永遠回帰)、バロック哲学、ベンヤミン)。
雑感
ここ最近は次年度の講義準備のため、哲学史関連の本をつらつら読んでいた。今日も今日とて、プラトン全集の「パルメニデス――イデアについて――」にざっと目を通していた。(引っ越した際にどうも売り払ってしまったみたいで図書館から借りてコピー)あと最近の読書は、なぜかしら近世哲学物をつらつらと。
『デカルトの哲学』(人文書院)でもそうだったが、小泉氏の(倫理的)スタンスは、まったくもってデカルトに帰するということがよく分かる。
珍しく、図書館で借りた著書を通読。小泉氏と上野氏に共通しているのは、通俗的な哲学史的解釈に決して依らず、各々の哲学者に固有のロジックを汲み取ってくるという姿勢だろう。勉強不足ながら教科書的な知識しかなかったホッブズに関して、その機械論的唯物論による意志についての議論が興味深かった。
人間は物体であり、そのすべての行為は物理的法則にしたがって必然的に生じる。ある行為を説明する直近の原因は、脳内に想定された運動の端緒である「表象作用」である。意志はどこにあるのか。それは、「表象作用のプロセスの終結部に位置する「最後の欲求ないし恐れ」、これが人間の意志だ」(144)。だから、「意志がなかったとは言わせない」(第14章のタイトル)。
では心神喪失はどうする? ある行為の責任は表象作用のどの点に帰しうるの? など考えると面白い。ライプニッツの予定調和の議論も見事。
あとは購入図書。
ただし新装版。
ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎
- 作者: 秋葉剛史,倉田剛,鈴木生郎,谷川卓
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2014/02/21
- メディア: 単行本
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フレデリック・ネフに『形而上学とは何か』という分厚い本があり、それが、あくまでもカントの超越論哲学の枠組みと、(ハイデガー的な)神学問題との距離を想定しつつ、英米系の分析哲学の議論を論じているのに対し、いわゆる「現代形而上学」と呼ばれるものにはそういう意識は(クワイン以来の伝統なのか、意図的にか)無いようだ。(もちろん、普遍者や属性の問題はあるので、一概には言えないが、あえて「言葉の問題」に落としているような印象。まだ全部読んでないので違うかもしれない。勉強させていただきます。)
ともあれ、そろそろドゥルーズ・アジアンカンファレンス関連の準備も始めないといけない。
博士論文公聴会が終了しました
昨年末に提出した博士論文の公聴会が本日、無事に終了しました。多忙のところ審査を引き受けてくださった先生方、また、大雪の中集まってくださった方々に、心より感謝申し上げます。
先生方から、非常に重要な指摘・コメントを頂きました。
M先生
論文では、『アンチ・オイディプス』は、『意味の論理学』とは異なり、分裂症の問題を臨床的実体に還元することなく、またそこから距離を取ったとされるが、主体の生産や主体化にこだわったガタリはむしろ、臨床的実体の方へと向かっていたのであって逆ではないのか。
論文で想定している臨床的実体は、きわめて通俗的な意味(つまり、精神分析的言説、医療、家族によって対象化される限り)のものであり、ガタリが想定するそれとは異なる(むしろ、こちらの主体性の議論には親和的である)。また、医療的、病院的、制度的な意味における臨床、治療の観点は、おそらくドゥルーズにおいては全く欠如しているとお答えした。
M先生は今ガタリを集中的に読んでおられるそうだが、歓談しているときにふと思い出したことがある。僕はまったくガタリの文章が読めないと常々言って回っているのだが、唯一、『カオスモーズ』だけはかつて熱心に読んでいたのだ。これをすっかり忘れていた(抑圧していた?)。過去に読んだ形跡を辿ると以下の文が目に留まる。
むしろ活動の場が「心の能力」、個人相互の関係、あるいは家族内複合〔引用者挿入:家庭内コンプレクス?〕の範囲に限定されることのない主体化機械の存在を把握することが求められているのです。(20)
かなり前から私は、フロイトの局所論を支える意識ー無意識の二元論と、エディプス三角形および去勢コンプレックスに相関する善悪二元論的な対立をすべて放棄しています。私が選択したのは多数多様な主体化の層を重ね合わせ、しかもその層自体が相互に異質で、外延と内実〔内包?〕を変化させていくような無意識です。(24)
(フェリックス・ガタリ、『カオスモーズ』、宮林寛・小沢秋広訳、河出 書房出版社より)
この箇所は、博論で主張したドゥルーズの自然哲学における「脱中心化された主観」、「自然の内部における多様の自己組織化」を端的に言いあらわしているように思われる。確かに論文では、「自己組織化」と書いてしまったために、単なるオートポイエーシス的な議論に回収されてしまうように読めてしまうのが問題だ。むしろ、無際限に異質な階層性の間の(バフチンの)ポリフォニー的な連関として論じるべきであった(ここに、動物行動学の範囲に収まらない、エソロジーの含意があるはずだ)。
また、K先生からは、『差異と反復』において超越論的経験論が対象とするのは強度(感性)であり、潜在性(思考)は対象とされない(能力論でも、感性と思考はきっぱりと分けて議論されている)。ならば、超越論的経験論とは、きわめて限定的なものであって、これをドゥルーズ哲学全体を代表するものとして考えるのは無理があるのではないかという根本的な指摘を頂いた。
論文では、カントの超越論哲学という枠を限定したうえで、ドゥルーズの超越論的経験論の固有性を論じたため、潜在性(カントにおいては理念に対応する)の議論を端折ってしまったため、確かにそういった印象を与えてしまったことは否めない。もっと議論を詰める必要があるだろう。
さて、公聴会の後、研究室の古株が集まって昼食をとったのだが、結局3時間にわたって(ほとんど研究とは関係のない)話をゲラゲラ笑いながらしていた。彼らとの話は本当に尽きない。公聴会よりも、こちらのおかげで急激に疲れが出てしまい、頭痛がしている。。。
購入図書など
年末に博士論文を提出し、ようやく本が読める状態になった。しかし、達成感などというものは微塵もありません。やらなければならないことが山積です。ともあれ、2月14日の公聴会の準備を。いったい何を既に買って、何を読むべきなのかを見失いはじめたのでまとめておこうと思う。
- 作者: E.カッシーラー,Ernst Cassirer,宮城音弥
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/06/16
- メディア: 文庫
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次年度の「哲学概論」後期の教科書に用いようと、旧版を読んでいたが(ちなみに定価が300円!)、新装版が出ているのを書店で見つけたので購入。旧仮名遣いが直されている。
こちらはその講義の参考図書として。書かれていることは、われわれ哲学屋にとっては当然身につけているべき「常識」であるので、改めて学ぶことはないが、学生にとっては有益である。とはいえ、われわれにとっては、哲学書を読み、他人と議論するなかで培われ、いつのまにか血肉となった技術であるので、これを文書を通して(つまり頭で理解し)身につけることができるのかは疑問だ。哲学研究とは、通常思われているよりもathlétiqueなのだ(←『感覚の論理』などに頻出するのですが、何て訳すのでしょうか)。
こちらも講義用だが、今更、入門的な哲学史の記述を追うのはとてもつらい。
前著『絶望論』よりもはるかに理解し易い(これは、僕がマオイズム関連に明るくないためであるが)。
2011年に逝去されていたことを恥ずかしながら存じ上げませんでした。これから勉強させていただきます。(積読)
完全なる私用。(積読)
著書自身も書いておられたと思うが、何かしら提言なり提案なりがなされているものではない。著者が知らなかったこと(あるいは知っていたこと)、知らなくてもよいとされていたこと、これから知られぬままでも構わないとされるであろうこと、これらをとりあえず書き記しておこうという本である。
精神医療の制度や運動、それにまつわる諸問題に関しては、きっぱりと善悪や白黒を付けられるものではない。批判する側、批判される側の両方に思い込みや思い違いがあり、レッテルの張り合いがあるからだ。ともあれ、僕が立岩氏を読むのは、かつて『現代思想』にて小泉義之氏との対談において語られていた内容が、きわめて本質的だと思われたからだ。医療や制度、治療やケアという名で、患者はさまざまに対象化され処方を施される。病は治療される「べき」であり、障害者は健常者と同等の生活や権利をもつ「べき」である、とされる。おそらく、立岩、小泉両者はここに腐臭を嗅ぎ取っていたと思う。医療、治療が介入せずとも彼らが「うまくやっていた」時代がかつてあったし、健常者と同等の生活や権利に自らを適合させずとも、自身の病や障害を肯定しえた時代があったはずで、それを拾い上げるべきなのだ。
もちろんうまくは言えない。しかし、だからこそ、先天的障害を持って生まれた人間が、子を産み育てている現実を知り、あるいは、相方から統合失調症を打ち明けられた時に、「それってお前の個性じゃん」「何年かかっても、お笑いがやりたけりゃ、また二人でやればいいじゃないか」と言ったというエピソードを聞くたびに、いちいち感動するのである。
ともあれ昨年末から唯一読んでいたのが、立岩氏関連著書であった。
文庫版が出ていたので購入。おおよそ1000頁!
92日前
まったく当初の予定は進まず。明日から始業。この一週間は、夏休みにずっと放っておいた某翻訳を大急ぎでやり、さきほど完了した。翻訳をしている間は、論文なぞいっさい書くことができなかった。
ともあれ、来月に入るまではまだ余裕があるので、予定していた分は消化しないといけない。
9月30日まで
・D3章完成(ここ2日ほどで)
・D4章(書下ろし)、D5章(訳出)
・D6章ドラフト
これだけできれば文句ない。最低でも半分くらいはこなしておかないと本当にやばい。
博論提出まで112日
ということのようだ。しかし、これが長いのか短いのか分からないことが怖い。それよりも、大学の始業が9月19日(!)だということに驚愕している。
ともあれ本日は、学生たちとヒュームと現象学の読書会。ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』(晃洋書房)から、後期フッサールの身体の部分を読んでいる。「本源的に、私は対象としての私の身体についてのどんな意識ももたない」という部分に手こずる。頭では分かっても、いざ説明するとなると難儀。
以下、今後の予定(といっても、私的にも公的にも予定は特にない。今回の日仏は見合わせるしかない。)
8月31日:D論3章〆(現在半分ほど)
9月5日:D論4章〆(前段階では3章に入れるはずであったが、新たな論点(ベルクソ ン)が見つかったため独立)
12日:D論5章〆(英語論文の訳)
19日:大学始業(3限フランス語)
9月中に6章の仮〆かある程度書き終えられれば非常に良い。
10月:序論、結論、体裁直し
11月22日:博論題目提出(16時)
12月20日:博論提出(16時)
題目提出までに終えておくのが理想。ここのところ読むべき本がないため助かっているが(手元にあるのは郡司ペギオの新刊のみだ)、ともあれ、来年まで多崎つくるもおあずけである。中上健次とか多和田葉子とか読みたいな。
群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序 (PHPサイエンス・ワールド新書)
- 作者: 郡司ぺギオー幸夫
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2013/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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昨年(?)阪大に来られた際に話されていた「カニ」の話題も。
雑感
前期試験、採点もようやく終わり、完全に夏期休暇に入った。なりふり構わず論文書きに精を出さねばならないが、今一つ。
- 荒畑靖宏、「超越論的有限性としての時間について――ハイデガーのカント改釈――」、『哲學』第103集、慶應義塾大学三田哲学会編、1998年。
- Jeffrey A. Bell, Deleuze's Hume: Philosophy, Culture and the Scottish Enlightement, Edinburgh, Edinburgh University Press, 2009.
後者のヒューム論はそういえば読んでいなかったので、前半部を少し。まったく(とは言わないが)論証なしに書くが、ドゥルーズの『経験論と主体性』はおそらくハイデガーのパロディである。
ドゥルーズもどこかで言っていたと思うが、ヒューム自身は主体や主観性について明示的に論じてはいない。ではなぜドゥルーズは「主観性」を問題としたのか。『経験論と主体性』の根本的な問いは、「単なる所与のコレクションが、どのように当の所与の内部においてシステム(主観)となるのか」というものであり、それがこの本の主題である。言うまでもなく、これはカントの問いである。すなわちドゥルーズは、カント的な超越論哲学の要である超越論的主観性(統覚)の発生の問題を、ヒュームの経験論から論じようとしている。そして、周知のようにハイデガーは『カントと形而上学の問題』において、さらにその超越論的主観性の条件を、超越論的構想力に見出した。ハイデガーと同様、『経験論と主体性』においても、構想力(ヒュームにおいては想像力)の位置づけが問われることになる。
もちろん、ドゥルーズとハイデガーは完全に一致するわけではない。ハイデガーは『純粋理性批判』第二版の「純粋悟性概念の演繹」の部分を批判し、第一版のいわゆる「心理主義的」なカントを称賛する。しかし、少なくとも、ドゥルーズがこの点に同意することはないだろう。むしろ、超越論的に機能する主体の条件は、構想力においてではなく、合目的性や習慣(これらは信念、発明によって生産される)といった、心理主義的な主体の外部に求められることになる(ヴァール由来の「関係の外在性」もここで利いてくるのではないか)。
ドゥルーズが、1956年前後にはハイデガーのカント書を読んでいることは確実だが(56-57年の講義参照)、1953年に発表された『経験論と主体性』の執筆時に読んでいたかは定かではない(しかし、読んでいなかったとしても、ヴァールの講義で耳にしていた可能性はあるだろうし、内容上、そう考える方が妥当である)。何が言いたいかというと、つまり、『経験論と主体性』が論じているのは、ハイデガーと同様(その形而上学の基礎づけを低く見積もって言えば)、われわれの経験の可能性の条件を問う超越論哲学の枠内に収まる話であって、ジェフリー・ベルが言うようなドゥルーズ固有の「超越論的経験論」ではないということだ。それでは単に、カント哲学に追従しているに過ぎない。おそらくどこにドゥルーズ固有の論点があるのかを示す必要があるだろう。
あと、付け加えれば、『経験論と主体性』は日本で言う修士論文にあたるものであり、実際、それが出版されるに当たり、どの程度加筆され、変更されたのかは定かでない。ドゥルーズだって人の子、単行本となる処女作なのだから、まさかそのまま出版するとは思えないのだが。。。原資料が今のところないので確定的なことは言えない。