博士論文公聴会が終了しました

昨年末に提出した博士論文の公聴会が本日、無事に終了しました。多忙のところ審査を引き受けてくださった先生方、また、大雪の中集まってくださった方々に、心より感謝申し上げます。

 

先生方から、非常に重要な指摘・コメントを頂きました。

M先生

論文では、『アンチ・オイディプス』は、『意味の論理学』とは異なり、分裂症の問題を臨床的実体に還元することなく、またそこから距離を取ったとされるが、主体の生産や主体化にこだわったガタリはむしろ、臨床的実体の方へと向かっていたのであって逆ではないのか。

論文で想定している臨床的実体は、きわめて通俗的な意味(つまり、精神分析的言説、医療、家族によって対象化される限り)のものであり、ガタリが想定するそれとは異なる(むしろ、こちらの主体性の議論には親和的である)。また、医療的、病院的、制度的な意味における臨床、治療の観点は、おそらくドゥルーズにおいては全く欠如しているとお答えした。

 

M先生は今ガタリを集中的に読んでおられるそうだが、歓談しているときにふと思い出したことがある。僕はまったくガタリの文章が読めないと常々言って回っているのだが、唯一、『カオスモーズ』だけはかつて熱心に読んでいたのだ。これをすっかり忘れていた(抑圧していた?)。過去に読んだ形跡を辿ると以下の文が目に留まる。

むしろ活動の場が「心の能力」、個人相互の関係、あるいは家族内複合〔引用者挿入:家庭内コンプレクス?〕の範囲に限定されることのない主体化機械の存在を把握することが求められているのです。(20)

 

かなり前から私は、フロイトの局所論を支える意識ー無意識の二元論と、エディプス三角形および去勢コンプレックスに相関する善悪二元論的な対立をすべて放棄しています。私が選択したのは多数多様な主体化の層を重ね合わせ、しかもその層自体が相互に異質で、外延と内実〔内包?〕を変化させていくような無意識です。(24)

(フェリックス・ガタリ、『カオスモーズ』、宮林寛・小沢秋広訳、河出 書房出版社より)

 この箇所は、博論で主張したドゥルーズの自然哲学における「脱中心化された主観」、「自然の内部における多様の自己組織化」を端的に言いあらわしているように思われる。確かに論文では、「自己組織化」と書いてしまったために、単なるオートポイエーシス的な議論に回収されてしまうように読めてしまうのが問題だ。むしろ、無際限に異質な階層性の間の(バフチンの)ポリフォニー的な連関として論じるべきであった(ここに、動物行動学の範囲に収まらない、エソロジーの含意があるはずだ)。

 

また、K先生からは、『差異と反復』において超越論的経験論が対象とするのは強度(感性)であり、潜在性(思考)は対象とされない(能力論でも、感性と思考はきっぱりと分けて議論されている)。ならば、超越論的経験論とは、きわめて限定的なものであって、これをドゥルーズ哲学全体を代表するものとして考えるのは無理があるのではないかという根本的な指摘を頂いた。

論文では、カントの超越論哲学という枠を限定したうえで、ドゥルーズの超越論的経験論の固有性を論じたため、潜在性(カントにおいては理念に対応する)の議論を端折ってしまったため、確かにそういった印象を与えてしまったことは否めない。もっと議論を詰める必要があるだろう。

 

さて、公聴会の後、研究室の古株が集まって昼食をとったのだが、結局3時間にわたって(ほとんど研究とは関係のない)話をゲラゲラ笑いながらしていた。彼らとの話は本当に尽きない。公聴会よりも、こちらのおかげで急激に疲れが出てしまい、頭痛がしている。。。