雑感

ここ最近は次年度の講義準備のため、哲学史関連の本をつらつら読んでいた。今日も今日とて、プラトン全集の「パルメニデス――イデアについて――」にざっと目を通していた。(引っ越した際にどうも売り払ってしまったみたいで図書館から借りてコピー)あと最近の読書は、なぜかしら近世哲学物をつらつらと。 

 

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

 

 『デカルトの哲学』(人文書院)でもそうだったが、小泉氏の(倫理的)スタンスは、まったくもってデカルトに帰するということがよく分かる。

 

哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀
 

 珍しく、図書館で借りた著書を通読。小泉氏と上野氏に共通しているのは、通俗的な哲学史的解釈に決して依らず、各々の哲学者に固有のロジックを汲み取ってくるという姿勢だろう。勉強不足ながら教科書的な知識しかなかったホッブズに関して、その機械論的唯物論による意志についての議論が興味深かった。

人間は物体であり、そのすべての行為は物理的法則にしたがって必然的に生じる。ある行為を説明する直近の原因は、脳内に想定された運動の端緒である「表象作用」である。意志はどこにあるのか。それは、「表象作用のプロセスの終結部に位置する「最後の欲求ないし恐れ」、これが人間の意志だ」(144)。だから、「意志がなかったとは言わせない」(第14章のタイトル)。

では心神喪失はどうする? ある行為の責任は表象作用のどの点に帰しうるの? など考えると面白い。ライプニッツの予定調和の議論も見事。

 

あとは購入図書。 

哲学の歴史 (講談社現代新書)

哲学の歴史 (講談社現代新書)

 

 ただし新装版。

 

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

 

 フレデリック・ネフに『形而上学とは何か』という分厚い本があり、それが、あくまでもカントの超越論哲学の枠組みと、(ハイデガー的な)神学問題との距離を想定しつつ、英米系の分析哲学の議論を論じているのに対し、いわゆる「現代形而上学」と呼ばれるものにはそういう意識は(クワイン以来の伝統なのか、意図的にか)無いようだ。(もちろん、普遍者や属性の問題はあるので、一概には言えないが、あえて「言葉の問題」に落としているような印象。まだ全部読んでないので違うかもしれない。勉強させていただきます。)

 

ともあれ、そろそろドゥルーズ・アジアンカンファレンス関連の準備も始めないといけない。