雑文

檜垣立哉氏の「生殖と他者―レヴィナスを巡って―」(『実存思想論集XXII』所収2007年)を読みつつ。
無底の〈イリア〉から成立した自己に対して、他者は二つの様態で現れる。一方は、「汝殺すなかれ」という命法によって、自己の自己触発的な充足状態を解体する外部として。他方は、超越的な他者と「曖昧」に関係を持ってしまう(決して触れえないものに触れるというパラドクス)愛撫という場面において。前者が世界の意味措定を担う他者であるのに対して、後者は前者の超越を引き受けながらも、身体的な交錯において自らの無意味を示す。これによって、他者は超越と質料性の交錯において捉えられる。

ここからレヴィナスの議論は、生殖論へと展開される。すなわち、こうした他者性とは、ほかならぬ有限者である私が生み出すことによって成立するということである(厳密に言えば、私が私であるという自己性を確保するために、無限が有限なる自己から産出され、有限が無限を孕むことによって自己性のなかに無限の時間性が織り込まれるということである。)「私が私であるのは、私が私の子供であるからだ。」ここに有限と無限の論理階層の混同を見るのではなく、有限と無限との論理的差異を担保したまま、質料的な場面に引き付けて両者の関係を包括的に議論できる生殖論の強みを見るべきだろう。檜垣氏はこの水準からジェンダー・セクシャリティの議論を立て直そうとしているのである。

無限と有限のみならず、形式と内容、形相と質料、言語と発話といった二項対立をどう考えるか。類人猿が人とほぼ同程度の身体的(遺伝子、骨格、筋)構造を持っているにもかかわらず、人間のように「高度」な言語を使用しないという話を聞いたとき、単純に形式性と身体性の包摂関係の問題だと思った。問題は、こうした言語の形式性の地位(state)をどう考えるかだ。(もちろん「あて」はある。)形相と質料の弁証法ではなく、質料が形相を媒介とすることでいかなる質料性へと生成するのかを捉えることだ(いかなる質料性が産出されるのか。この点において「われわれ」は類人猿と根本的に異なる)。形相性と質料性の循環的な産出的運動。これは、唯名論(個人が言語に先立つ)でも実在論(言語が個人に先立つ)でもない。このことをソシュールデュルケームはよく認識していた。なぜなら、彼らが言うように、個人の発話の循環なしには言語は存在しないが、言語が存在していなければ個人は発話できないし、個人の行為や感覚的要素から成り立っているにもかかわらず、個人に対して外在し個人に強制を行うのが「社会」であるからだ。19世紀においてデュルケーム(あるいはタルド)の社会学やソシュール言語学が成立する際、彼らが共有していた問題意識から根本的に考え直さなければ、そもそも話にならない。