ウーノ、ポステュマン。

今日はパリ8、Pierre Cassou-Noguès氏のゼミへ。
文学や哲学は、機械(Machine)のイメージを非常によく多用する。そうしたイメージは科学や科学的思考にいかなる影響を与えうるのか。それはおそらく思考という語そのものが持つ観念(notions)を変容させるだろうし、「人間」の定義そのものの変更を強要することもあるだろう。

さて、デカルトの「盲人の杖」とサイボーグの件を聴いていて(学生のひとりが「そもそも機械の定義は何ですか」と聞いていたこともあってか)、例えばすでに人工透析が可能であるように、自身の身体組織を徐々に「人工物」に取り替えて行き、すべてが「人工物」に代替された場合、どこかで異なる人称に変容しうるのだろうか、というようなことをぼんやりと考えていた。カントの『判断力批判』に出てくる全体・部分関係(「全体は部分によって構成されるのではなく、部分こそが全体という理念に従って自らを規定し、有機的に結びつくことによって可能となる」)を考えてみても、つねに私(有機体)は「私」(理念)であり、この関係が変わることはない。もちろん、この理念をどの水準(記憶、証言、歴史、痕跡など)が担保しているのかは議論の余地があるだろうが。(wikiによると、ポストヒューマンの議論に関して同じようなことをピンカーが述べているようだ。)

そして、「ポステュマン、ポステュマン」と連呼されるので、SF作家かなにかかと思っていたが、話の流れで「Post humain」のことだとハタと気づいた。「ウーノ」はノーバート・ウィーナー(Wiener)のことです。

  • Henri Maldiney, Regard, Parole, Espace.

リズム論の部分を少し。セザンヌが「深淵」と呼び、クレーが「カオス」と呼ぶもの、「めまい」に関する素晴らしい記述を読む。