「男/女という二つの性しかないことが特異な形で、〈n個の性〉が一般的だと、マーグリス/セーガンはいう。」(真木悠介、『自我の起源 愛とエゴイズムの動物社会学、岩波書店、2008年。)

だからといって、人間における性の区別が言語的に構築されているわけでも、単なる意識的表象にすぎないわけでもない。
ウィルスや微生物が常に遺伝子を組み替え、自由に「進化」を行っているのに対し、「われわれのような多細胞の「個体」では、個々の細胞が勝手に自己変革をとげないようにシステムが抑制している」(69)。こうした遺伝子の交換の自由と引き換えに、われわれ多細胞の「個体」が選択したものこそ、生殖である。すなわち、われわれ多細胞生物は、遺伝子の交換を生殖の時だけに限定したのだ。
これによってわれわれは何を得たのか。それは必然的に死ぬ「自己」である。細胞分裂を繰り返すことでいわば「自己」を増殖させる単細胞生物は、決して死ぬことがない。
翻って、われわれが必然的に死すべき存在であるということは、われわれが必然的に生殖を選択したことを意味する。これは、急激な環境変化に対応可能な、突然変異的な個体集団を発生させるために生殖が選択されたなどという、目的論的因果性のことではない。「不死鳥や不死蝶のような多細胞永久態という変異がいったんは進化論的に実験された上で、適応競争に敗れて棄却されたという経緯」(68)があったことなどないからだ。したがって、われわれは、進化上のある地点において(真核細胞から多細胞生物を経て)必然的に生殖を選択し、同時に、必然的な個体としての死を選択したことになる。

「性という〈革命〉のかたちをとおして、個体の立場からみれば、死は真に徹底した死となる。性のある者は、同じ遺伝子型の個体を決して残さない。子供を残しても残さなくても、「私」は残らない。「私」のクローンさえ残らない。われわれが性の存在であるということは、完全に死すべき存在であるということだ。生成子〔遺伝子gene〕の転生=再身体化reincarnation の永遠の旅は、この個体の徹底した死をとおして貫徹する。そして個体は、くりかえしのない真に一回限りの生として、「個」として確立する。
 死すべきものであるということは、生きているものであることの宿命ではない。個であることの宿命である。とりわけ、性的な個であることの宿命である。」(70)