ネガとしての『AO』と、ポジとしての『MP』を語るために。

小泉義之、「意味の地質学、人類の腫瘍学―『悲しき熱帯』を読む―」、『思想』第一〇一六号所収、2008年、岩波書店

レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』において、戦後の社会に通底する基本構造としての「理念的な目録」(大地の主−意味)から現実的な習俗への過程を探求する「意味の地質学」を実践している。しかし、その実践のなかで彼は、民俗学者が「未開」の社会を探求することの不可能性(あるいは欺瞞)に直面する。だが、こうした民俗学の限界は、彼を「人類の腫瘍学」へと導いた。

「大地に生い立つ水疱や浮腫は、大地の意味=方向に逆らう無秩序に見えるが、そうではない。肉体の上皮に生い立つ腫瘍は、良性であるか悪性であるかを問わず、基盤の上皮組織の意味=方向に従った秩序を内包している。だから、たとえ悪性の腫瘍であっても、その中に入り込んで内から見るなら、言いかえると、その中で生き延びていくことができるなら、そこもまた意味=方向に誘導された複雑なシステムをなしていることが見分けられる。そこに固有の生き延び方を見分けられる。(62)

それは、善悪の彼岸から基礎モデルに立ち返り、なんども社会をやり直す(作り直す)理論を作るためである。


まだざっと目を通しただけだが、いくつも考えねばならない「宿題」が含まれている。とりあえず全体的な構成について。
『悲しき熱帯』におけるレヴィ=ストロースの変遷は、そのままドゥルーズ=ガタリの変遷でもある。この論文は、『アンチ・エディプス』から『ミル・プラトー』の変遷をなぞっている。精神分析と人類学による人為的操作を排することで「欲望的生産」あるいは充実身体(ここで器官なき身体を出すことは不適切だろう。なぜなら、器官なき身体とは、その上で消費と生産が登記される平面をなし、それらに反するもの(contre-sens)であって、主−意味(maitre-sens)ではないからだ)を救済したのが『アンチ・エディプス』であり、それをある種の分子的レベル(自然史的歴史?)から記述しようと試みたのが『ミル・プラトー』だからだ。
『AO』をネガとして、『MP』をポジとして語るためには、そもそも前者の限界はなんだったのか(たとえば、欲望的生産や充実身体をポジティブに提示する理論的装置がなかったことなど)、では後者の理論装置が、ほんとうにその限界を救済できているか否かを問題としなければならない。