ま、新学期の忙しさにのまれ、何もかもが中途半端なまま、ばたばたしております。

少し妄想的考察。



まず、ソシュール記号学において、signe(記号)とは signifiant(意味するもの、意味表現)と signifié(意味されるもの、表現内容)という二側面を備えたひとつの実体として捉えられる。
注意すべきことは、記号が指示する、あるいは表現しているのは、現実的に存在する事物や事態ではなく、シニフィアンと相関的な関係にあるシニフィエなのであり、シニフィエとは、シニフィアンが任意の受信者に引き起こすであろう概念のことである。これは、記号とは現実にある事物なり事態なりを直示すると考える、われわれの一般的な記号についての理解(伝統的な指示による言語理論)に反するモデルである。
さらに、シニフィアンとは、任意の受信者が聞き取る一定の音の連鎖が引き起こす「聴覚イメージ(image acoustique)」である。

ではこれらから引き出されるいくつかの問題は、


?シニフィアンが「聴覚イメージ」であるとすれば、われわれが一般的に記号であると考えている、言語的表現、図式的表現といったものは、シニフィアンそれ自体ではなく、シニフィアンを引き起こす原因である。また、その言語、図式もまた、シニフィアンを引き起こす原因を指示する、あるいはその原因を表現するために用いられる何か(something)でしかない。図式で示すと、

シニフィエ(概念)/シニフィアン(聴覚イメージ)
 ←←聴覚イメージを引き起こす音の連鎖(それを表現する言語、図、something)
                             ‖
                            ???

ならば、聴覚イメージを引き起こすものが音の連鎖であろうが、なんらかの図であろうが、それ自体は、聴覚イメージを引き起こす原因に付された何かなのだから、結局は二次的なものである。したがって、問題なのは、その原因、つまり、われわれに聴覚イメージを引き起こすものとは一体何なのかということである。