豊作豊作


学部のとき図書館でこのハードカバーを「ちら見」し、「これはじっくり読まねば」リストに人知れず登録され
てはや4年!!文庫化されました!ちくまに拍手!


電車であとがきを「ちら見」。



論理哲学論考』は根本的にまちがっている。ウィトゲンシュタイン自身の後期における自己批判を待つま
でもなく誤っている。しかし、だからといって『論考』がその重要性を失うことにはならない。『論考』のどこが
根本的にまちがっていたのか、いったい『論考』には何が欠けていたのか、それを見極めることで、『論考』
を破棄するのではなく、再構成すること、それが後期ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』のもくろみである。


あとがきによると、野矢氏は『論考』精読のあと、『探究』を読み直すことで、前述の立場を強化した。思考の
限界を論理(言語)形式の限界とした『論考』の「ツルツルした氷の上」に欠けていたのは、まさに「身体」であ
り「自然」である。そして、『探究』という「ざらざらした大地」において取り戻される「自然」とは、自然主義的な
意味での「自然」などではない。それは「言語が成立する基盤として要請される自然の秩序」、あえて名づけ
るならば「超越論的自然」である。


『論考』において「語りえぬものであり、示されることしか可能でないもの」、にもかかわらず、語りえぬままそ
の沈黙において享受されるもの(すなわち、論理と倫理)、それが『探究』という「大地」からはどのように見え
るのか。著書の目的はまさに、「『論理哲学論考』を生きているままに立ち上がらせ、その肉声を響かせるこ
と」である。