あるとき、「イ・ヌ」という音の連鎖が発せられたとする。それをわれわれが聞いたとき、音連鎖「イ・ヌ」はわれわれの言語体系における統語論的規則にしたがって、「いぬ」という語として認識され、ある聴覚イメージを引き起こす。その聴覚イメージがシニフィアンである。
ここで、統語論的規則というのは、音連鎖「イ・ヌ」が、「イ・ネ」、「イ・シ」、「イ・ロ」といった音連鎖との差異によって弁別されることによって「いぬ」が価値を持つ語として与えられるということである。(勉強不足を盾に言い訳すると、ソシュールはおそらく語(犬とか猫)の価値の規定について語っているのであって、もしかするとソシュール自身はこのような音韻論的弁別を述べていないかもしれない。)
さて、そのような価値を持つ語として弁別された「いぬ」というシニフィアンは、なんらかの概念を引き起こす。その概念がシニフィエである。

先日言いたかったことは、われわれが聞いたと信じている「イ・ヌ」という音の連鎖は、単なる空気振動、器官と気圧による摩擦音でしかないのであって、そもそもこのように50音(あるいはアルファベット)による書記体で表現できるようなものではない。われわれが聞くのは、もうすでにシニフィアンとして規定された聴覚イメージなので、それ以後のソシュールの手続きに関しては問題はない。しかし、シニフィアンそれ自体とはそのような記号過程の端緒の「記号」なのであり、われわれに直接的にあたえられたものと、シニフィアンを混同、同一化するわけにはいかないのではないか。ならば、われわれに直接あたえられたもの、記号過程の端緒そのものとは一体なんなのだろうか。


ある程度、見通しはついてるけれども、まだまだ論証することはできない。
ちょっと、ソシュールもじっくり整理しておかないといけないなぁ。