isbn:4791762894:detail


精神分析家ジャック・ラカンは、「精神分析におけるパロールと言語活動の機能と領域()」の冒頭に、次のような銘句を掲げている。


特に、次のことを忘れてはならないだろう。すなわち、発生学、解剖学、生理学、心理学、社会学、臨床の分離など、自然の中には存在せず、そこにはひとつの学科だけがあるということを。つまり、神経−生物学こそ、その観察によって、われわれに関わることに、「人間的」という呼称を付け加えるのを余儀なくさせるのである。(Jacques Lacan, Ecrits?,Pris,Editions du Seuil, 1999.)


自然をどう定義するかはさておき、自然においては対立も否定もなければ、生理学と精神分析の区別もない。精神分析がその独自の制度、方法論によって、自らの学派、共同体の独立性を堅持し、他のあらゆる研究との接触を結果的に阻むことになっているのは事実であろう。しかし、"Anthropologie"の本来の意味における知的探究ということを真摯に受け止めるならば、精神分析と他の学問との離反的状態は忌避すべきである。いうまでもなく、精神医学と精神分析の根本的相違を無視せよと促しているのではない。それらの間に何らかの連続(連結)を見出さないことには、より「人間」に対する根源的理解を推進させることは難しいのではないだろうか。

本書は、まさに、神経生物学と精神分析というまったく異質な学問領域の間を、なんとかして橋渡しさせようという試みである。両学問が双方とも、お互いにまったく共通性をもたない要素があることを認めながらも、ある概念的共通性において交差しうるのではないか。そしてその概念的共通性こそが、「可塑性」の概念に他ならないと著書は述べている。

まだ、第一章しか目を通していないので、カトリーヌ・マラブーをはじめ、現代のフランス思想家がこぞって乱用するこの「可塑性」概念がどこまでの有効性をもっているのかは判断しかねる。ただ、精神分析の言語に対する精緻な分析(すなわち無意識に関わることだが)と、神経生理学および神経生物学(動物行動学、あるいはアフォーダンスも含まれるだろう)の唯物論的側面との、いわば平行論的総合(両者の直接的因果関係を認めることなく、両者を一義的に総合する)を考えるうえで参考になるのではないだろうか。


あと、告知。

来る10月30日16時(かな?)、大阪大学人間科学ユメンヌホールにて、ドゥルーズスピノザ研究者である江川隆男氏と、ベケット研究をはじめ様々な分野で活躍されている宇野邦一氏が、アルトーをめぐって一般講演を行います。詳細は後日。ぜひ参加してください。予習をかねて、江川氏の『死の哲学』を再読。および以下を購入。

“単なる生”の哲学―生の思想のゆくえ (問いの再生)

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