単なる覚書

ゼミにて。デリダエクリチュールと差異』「人文科学の言語表現における構造と記号とゲーム」(第10章)。

?文化/自然の二項対立において、同時に両方の特徴をもつ近親相姦。
 近親相姦が普遍的なのか、近親相姦の「禁忌」があらゆる文化において、明示的、暗黙的に普遍的なのか。


?体系と構造。(浮遊するシニフィアンと、空白の升目は同一か。区別して考えなければならないのでは)
 これを、『差異と反復』における時間論と関連付けてみる。
 A、A、A、A・・・という反復は常に、同一的な現在の反復でしかない。すなわち、現在、現在、現在の連鎖が、現在において反復するだけで、時間は流れない(現在の時間=第一の時間の総合)。また、AB、AB、AB、A・・・という反復も、Aが現れると同時に、常にAはBを喚起し、ABというかたちで縮約される。これもまた、現在の反復にすぎない(そもそも同一的な事項の反復が反復といいうるのか)。そこには序数的なものも、基数的なものも存立し得ない。しかし、現在は常に流れる。そこで第一のパラドクスが生じる。現在の反復でありながら、それが反復である限りにおいて、古い現在は現在との関係において過去でなければならない。したがって「過ぎ去る現在」というこのパラドクスは、なぜ現在が過ぎ去るのか、あたらしい現在が古い現在になるのかという問題を提起する。そこで要請されるのが、時間の根拠としての「記憶」である(純粋過去=第二の時間の総合)。古い現在とあたらしい現在は、この根源的な過去との関係において過ぎ去る。

「過去は古い現在とともに存続し、また過去は、アクチュアルな現在あるいはあたらしい現在とともに存立する。過去は、過ぎ去るということの究極の根拠としての時間の即時である。」

ここで初めて時間が生じる。言い換えると、現在と現在との間に序数の関係が存立する。そしてこの時間の成立、序数の存立に関わるのが、純粋過去であり、「0(ゼロ)」ではないか。1の次いで2が連続するという関係は、それら序数に対比させられる無のマークとしての0が必要となる。
しかし、これで時間のパラドクスが解消されることはない。純粋過去としての第二の時間の総合はさらなるパラドクスを引き起こす。つまり、この受動的総合に対するわれわれの能動的解釈が引き起こす循環のパラドクスである。すなわち、われわれが継起する現在において、その根拠として表象する純粋過去は、その能動的解釈において常に前提とされている。継起する現在を根拠づけるはずの純粋過去は、われわれの能動的解釈において、つねに、現在における同一性、類比、類推といったカテゴリーによって表象される。条件付けるものを条件付けられるものの転写において規定するという循環を犯してしまう。したがって、このような時間から開放されるための条件、「空虚で純粋な形式としての時間」が要請されることになる(第三の時間の総合)。これによって「時間は、基軸的なものであることをやめて、順序的なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。」(邦訳146ページ)
この時間の形式こそ、n-1によって表象されるものではないか。

時間がないので以下工事中。またあとで。