昔話

またまた日記を更新していなかったため、ログインを求められました。
パスワード??登録メール???なんやっけか????

まーなんとか入れましたが。


バイト帰りにサイゼリアにて三時間ほどお勉強。
シモンドンとサール。





それはともかく、「文章を理解する」と「文章を楽しむ」をなんとか小学生にも体得してもらいたい。
ワタクシだってそれほど多くの読書体験があるわけではないが、「決定的な読書体験」ならいくつかある。


例えばドストエフスキーの『罪と罰』の一場面。
細部は思い出せないが、確か「馬を虐待」しているシーンだった。

「文字を読んで、何が書いてあるのかを理解する」という行程に、少なくとも依存しないような「理解」。フィク
ションとかリアルとかいった区別が(ないのではなく)いかなる説明的価値を持たない「理解」。



例えば村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』。
細部は思い出せないが、確か最後のほうで主人公が一人で泣くというシーンだった。


静かに降り積もる雪のように音もなく悲しみは積もり、僕は泣きそうになった。
しかし涙を流すには僕はもう年を取りすぎていた。


主人公が悲しいのか、読んでいる自分が悲しいのかわからないところでの「楽しみ」。




例えば食欲であったり、性欲であったり、そのような日常的な生活において求める(積極的な)楽しみとは、
きわめて容易に手に入る。
それは好きなときに欲し、好きなときに欲しなければ良い。

しかし読書における「楽しみ」とは、快楽的な楽しさとは限らない。
読書において感得される「楽しみ」とは、常に暴力的に到来し、暴力的に過ぎ去る。
それは想像的に構成された欲望の対象ではなく、それは実在する対象であると言えば良いだろうか。

そこにおいてわれわれは常に受動的に「楽しみ」を被る。
そこにおいてわれわれは文章を「楽しむ」と同時に「理解する」。


そういった読書体験を一刻も早く「経験」していただきたい。
いかなるセオリーもなく、方法論もなく。