Luke Caldwell, "Schizophrenizing Lacan,[Guattari], and Anti-Oedipus," intersections10, no.3,2009, pp.18-27.

精神分析とドゥルーズの関係は、ひとつの大きなトピックである。とりわけ、フランスの精神分析家ジャック・ラカンがドゥルーズに対して与えた影響がどの程度のものであったのかについての判断は、研究者においても意見の分かれるところだ。

しかしながら、『差異と反復』や『意味の論理学』に代表される初期ドゥルーズにおけるラカンや精神分析の位置づけはきわめて肯定的であり、その理論構成におけるひとつの参照項として機能していたのに対し、ガタリとの共同作業による『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』では明確に精神分析に対して批判的立場が取られるというのが一般的な見解であろう。ドゥルーズにおけるこの転回を、ジジェックは否定的にとらえ、まさに『アンチ・オイディプス』は「ほぼ間違いなく、ドゥルーズの最低の本である」と述べている(とはいえ、ジジェックの批判のロジックを再検討してみる必要は十分にある)。

Caldwellによるこの論文は、2004年にCriticism誌上で展開されたドゥルーズとラカンの関係に関する論争に対してひとつの問いを投げかける。すなわち、ドゥルーズとガタリの共著である『アンチ・オイディプス』は、はたして実際にラカンを拒絶するものといいうるのだろうか。むしろ、精神分析に対する論争的な攻撃の裏で、ラカンの議論は依然として機能し続けているのではないかというのがCaldwellの判断だ*1

簡略に論文の概要を紹介する。
『アンチ・オイディプス』の基本的な考えは、無意識的な欲望の精神分析的な構築、主観性が形成される際の象徴的、文化的なものの役割、エディプスコンプレックス、これらを否定し、変形させることである。ラカンが主観性の構造的な欠如を論じるために提示した「対象a」や、「欲望は他者の欲望である」という言明を、ドゥルーズとガタリは存在論的原理として読み替え、象徴界想像界といった理念的区別を排除する。彼らにとっては、「あらゆるものが現実界であり、あらゆるものが機械である」(23)。欲望は他の欲望を無際限に生産し続け、それによって現実そのものを生産する。しかし、言うまでもなく、こうした欲望的生産過程は、さまざまな歴史的、社会的強制(国家、君主、家父長制など)によって不可避的に固定される*2。そして、ドゥルーズとガタリが提示する「分裂分析(schizoanalysis)」は、こうした「社会的強制から欲望―生産の過程を開放することを目的としている」(25)。『アンチ・オイディプス』はこの分裂分析によって、資本主義がいかに欲望的生産の過程を自らのうちに取り込み、それによって自らを展開し、自身の存立性を保っているのかを明らかにしようという試みだ。こうした観点からすると、ラカンの議論は単に拒絶されているわけではなく、そこに分裂症という論点が組み込まれることで、それをその極限にまで押し進めているのではないだろうかとCaldwellは主張する。
彼が行っているように、精神分析の位置づけを適切に把握することが、『アンチ・オイディプス』の内実を理解するための(それだけで十分だとは言えないが)不可欠な作業のひとつであることは言うまでもない。

*1:ちなみに彼によると、『アンチ・オイディプス』の出版の数ヶ月後、ラカンはドゥルーズを呼び出し、「君の議論はほとんど役に立たない。しかし、私が必要としているのは君みたいな人物だ。」というなんとも言いがたいコメントを述べ、さらにある人には、『アンチ・オイディプス』は自身のセミネールを基盤としており、セミネールにおいてはすでに「欲望する機械」という考えが含まれていた、とこぼしていたという。

*2:この辺の議論は、欲望があるから抑圧されるのか、抑圧されるから欲望があるのかという複雑な議論を含んでおり、これもまた精神分析(フロイト)とドゥルーズの論争点のひとつとなる。