文献追加

※いずれも酒井隆史『暴力の哲学』文献表より

雑感

 

 以前より気になっており、たまたま時間ができたので観る。いろいろ感想・考察に目を通していて思ったのは、「ヨブ記」を軸にしておけば、主人公=ヨブ、日本人と祈祷師=サタン、白服の女=神と整理できるかと思う。神は、ヨブの命を取らないことを条件に、サタンの試みを受けた。日本人と祈祷師が主人公の娘を標的にすること、白服の女は自ら日本人に手を下せないこと、主人公は結局、信を貫くことができなかった(白服の女=神を信じることができなかった)が、命は絶たれなかったこと、これらもそうすると納得がいく。

雑感

3月19日(土)

  • 午後からは、恩師にお誘いいただいた関西唯物論研究会に参加すべく、あべのハルカスへと向かう。このような若輩者が混じってよいものか恐縮しながら、メイヤスーの『有限性の後で』についての発表を聞く。本書で展開されている詳細な議論は措かざるをえないとして、たとえば「自然法則もふくめ、あらゆるすべては偶然であるということだけが必然である」というテーゼそれ自体を、相関主義的なこれまでの哲学は(たとえば思考不可能性や認識不可能性に還元してしまい)思考することができない。メイヤスーの主眼は、そのような相関主義を離れた(適切には相関主義の内側から突破し到達しうる)思考を取り出すことにあるのだか、いわば、「思考そのもの」であるそれは、はたしてどのようなものであるのか。これが明確にされれば、メイヤスーの一連の議論の真価を判定することができるように思う。しかし他の会員の方もおっしゃっていたが、『有限性の後で』では(集合論を介して示唆されてはいるが)この思考そのものがなんであるのかをメイヤスーは積極的に提示していないのではないか。個人的には、そこにおいて中心となるのが正義(倫理)や救済の議論であるように思う。
  • 先生とともに帰りの電車内で話していたのは、相関主義的でない(ということはつまり有限である主観なき)思考そのものというのは、ある種、シェリングの知的直観(神的直観)の議論に重なり、ドイツ観念論的文脈がメイヤスーの議論を引き受けるのも分かる。そこで、「では誰か思考するのか」という問いに、おそらくメイヤスーなら「思考そのものである」と応えるだろうが、ドゥルーズであれば「世界、鉱物、植物すべてが思考する」と応えるだろうし、そこで両者は対立するのでは、などということであった。

 

3月22日(火)

  • 北大路のスタバでマルディネの読書会。二つある対談のうち前半が次週で終わるが、後半はそれほど目新しい議論がなされているわけではないため、次はRegard, parole, espace(Cerf, 2012)のリズム論に入ろうかと思う。

 

備忘録:2016年2月予定

  • 生命倫理」関連本読み:2月中に終わらせ、3月に講義ノート作成)
  • DG-Lab会誌「hyphen」原稿の手入れ:最終3月末
  • 翻訳チェック:2月末めどに3章まで
  • 「自然」論文(継続)
  • 『差異と反復』読み(継続)

他人の意識と無意識

先日、テレビを見ていて、たまたまあるドラマにチャンネルを合わせた。「箱」というタイトルの短編ドラマであった(世にも奇妙な物語|世にも奇妙な物語 25周年記念!秋の2週連続SP~映画監督編~ - フジテレビ)。ほぼ、女優(竹内結子)の一人芝居で成り立っており、演技が鬼気迫っていて大変良かった。

彼女は何者かに背後から殴られ、狭い「棺桶」のようなところに閉じ込められている。携帯を使って外の世界に必死で助けを求めている。しかし、110番の対応はどうも奇妙(理不尽)であるし、恋人も電話に出ず、誰も助けてくれない。そのあいだも、箱はどこかに運ばれているようで、携帯の充電はどんどんゼロに近づいていく。突然、耳元で大きなパイプオルガンの音が響き頭が割れそうになる。突如、まばゆい光が差し込み、箱が開けられる。これは実のところ、密閉空間に彼女自身が入り、そこでの脳内物質を調査するという彼女自身が計画した実験であった(彼女は研究者のようだ)、という夢から覚醒すると、再び箱の中にいる。なすすべがない。携帯の充電も切れる。天井を何度も叩き、ここから出してと叫ぶが、一切外界からの反応はない。徐々に平静を失い、気が狂いそうになる。彼女はずっと叫び続ける。

 

実際には、彼女は、脳幹出血で倒れ、病院に運ばれるも、植物状態となっている。誰かに殴られた衝撃というのは、脳幹出血が起きた際、患者の多くが体験する衝撃であり、パイプオルガンの爆音はMRI検査時の音、突如差し込む光は、瞳孔を調べる医師のペンライトのものであり、これらはすべて植物状態の彼女が経験していることに符合していた、というストーリー。

 

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植物状態、脳死状態にある他者には意識がない。しかし、私たちは往々にしてこうした他者の意識を、私たちの意識のある状態の否定、すなわち非意識として表象してしまう。私には意識がある。彼には意識がないのだから、視覚や聴覚も、感覚もない、一切の無だ、としてしまう(だからそうなる前に、そうなったときの判断を事前に決定せよとあれこれ迫られることになる)。彼らは夢を見ている、反応(運動)は無いが、視覚や聴覚、感覚はあるといえるかもしれない。しかし、反応(運動)を欠いた視覚、聴覚、感覚が、反応(運動)と不可分な意識をもつ私たちのそれの否定である以上、それを無以外の何と弁えることができるのか。こうして、私たちは、まさか、意識のない人間が、自分たちと同じように苦しんだり、助けを求めているなどと想像だにしない(逆に言えば、私たちと同じように楽しんだり、何かを享楽しているなどと想像だにしない。)。

先のドラマが描いていたのは、意識のない他者の意識は、そうした非意識(私たちの意識状態の否定)ではなく、無意識(私たちの意識状態ではない意識)の状態にあるということだ。私たちと彼らの違い、私たちに「あって」彼らに「無い」のは、外界との直接的な因果関係だけである。そうした無意識という意識状態で、彼らもまた、私たちと同じように苦しみ、もがき、助けを求めている(当然、何かを楽しみ、何かを享楽している)。そのような他者の無意識が「ある」ことを前提とした上で、では、それをどのように(どのような手段で、何に拠って)把捉し、それに対してどのように(どのような手段で、何に拠って)応答すべきだろうか。

名を思い出す

人の名前をよく忘れる。しかし、忘れた名前をなんとか思い出そうとするのは比較的好きだ。まずは、「あ」から順に五十音を一文字ずつたどり、その名の頭文字を探す。これは大抵失敗する。そこでこんどは、名の雰囲気をあたまに思い浮かべつつ、また五十音をたどる。すると、「やま」とか「さか」とか、ある音のまとまりが引っかかる、近づいている気がしてくる。そして、これだと思われる音のまとまりの前後に何がつくかを探して、名の雰囲気をたよりに再び五十音をたどる。結果、その人の「名前」が思い出され、ああそうか、確かにこんな名前だったなと納得する反面、あの人は、はたして本当にこんな名前だっただろうかと不安になる。もはや確認するすべもなく、心もとない。

 

記憶にはグラデーションがある。正確には、記憶の内容を思い出す今との結びつきの強さに度合いがある(ように思われる)。しかし、記憶の度合いの強さは、結果思い出されたものが本当に思い出されるべきものであったかどうかを保障しない。では、思い出すということは、いったいなにをしたことになるのだろうか。