他人の意識と無意識

先日、テレビを見ていて、たまたまあるドラマにチャンネルを合わせた。「箱」というタイトルの短編ドラマであった(世にも奇妙な物語|世にも奇妙な物語 25周年記念!秋の2週連続SP~映画監督編~ - フジテレビ)。ほぼ、女優(竹内結子)の一人芝居で成り立っており、演技が鬼気迫っていて大変良かった。

彼女は何者かに背後から殴られ、狭い「棺桶」のようなところに閉じ込められている。携帯を使って外の世界に必死で助けを求めている。しかし、110番の対応はどうも奇妙(理不尽)であるし、恋人も電話に出ず、誰も助けてくれない。そのあいだも、箱はどこかに運ばれているようで、携帯の充電はどんどんゼロに近づいていく。突然、耳元で大きなパイプオルガンの音が響き頭が割れそうになる。突如、まばゆい光が差し込み、箱が開けられる。これは実のところ、密閉空間に彼女自身が入り、そこでの脳内物質を調査するという彼女自身が計画した実験であった(彼女は研究者のようだ)、という夢から覚醒すると、再び箱の中にいる。なすすべがない。携帯の充電も切れる。天井を何度も叩き、ここから出してと叫ぶが、一切外界からの反応はない。徐々に平静を失い、気が狂いそうになる。彼女はずっと叫び続ける。

 

実際には、彼女は、脳幹出血で倒れ、病院に運ばれるも、植物状態となっている。誰かに殴られた衝撃というのは、脳幹出血が起きた際、患者の多くが体験する衝撃であり、パイプオルガンの爆音はMRI検査時の音、突如差し込む光は、瞳孔を調べる医師のペンライトのものであり、これらはすべて植物状態の彼女が経験していることに符合していた、というストーリー。

 

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植物状態、脳死状態にある他者には意識がない。しかし、私たちは往々にしてこうした他者の意識を、私たちの意識のある状態の否定、すなわち非意識として表象してしまう。私には意識がある。彼には意識がないのだから、視覚や聴覚も、感覚もない、一切の無だ、としてしまう(だからそうなる前に、そうなったときの判断を事前に決定せよとあれこれ迫られることになる)。彼らは夢を見ている、反応(運動)は無いが、視覚や聴覚、感覚はあるといえるかもしれない。しかし、反応(運動)を欠いた視覚、聴覚、感覚が、反応(運動)と不可分な意識をもつ私たちのそれの否定である以上、それを無以外の何と弁えることができるのか。こうして、私たちは、まさか、意識のない人間が、自分たちと同じように苦しんだり、助けを求めているなどと想像だにしない(逆に言えば、私たちと同じように楽しんだり、何かを享楽しているなどと想像だにしない。)。

先のドラマが描いていたのは、意識のない他者の意識は、そうした非意識(私たちの意識状態の否定)ではなく、無意識(私たちの意識状態ではない意識)の状態にあるということだ。私たちと彼らの違い、私たちに「あって」彼らに「無い」のは、外界との直接的な因果関係だけである。そうした無意識という意識状態で、彼らもまた、私たちと同じように苦しみ、もがき、助けを求めている(当然、何かを楽しみ、何かを享楽している)。そのような他者の無意識が「ある」ことを前提とした上で、では、それをどのように(どのような手段で、何に拠って)把捉し、それに対してどのように(どのような手段で、何に拠って)応答すべきだろうか。