ギヨーム・ルブラン講演会(於:京都薬科大学)

久しぶりに身が空いたので、また、家の近所ということもあり、京都薬科大学にて行われたギヨーム・ルブラン氏による講演会「生命倫理の考古学」に参加してきました。薬大の教員の方々を中心に30、40名ほどおられただろうか。

 

講演内で幾度か強調されていたのが、「生命の価値づけ(la valorisation de la vie)」というものであった。これが(ルブラン氏は言及しておられなかったが)いわゆるアガンベン的な生命(la vie)とただ生きるもの(les vivants)の区別、それらのあいだを分節する何か規範的なものを生産するようだ。生命倫理の発生はこの規範の生産と同時である。この意味で言えば、生政治による技術的、科学的な生命への介入は、生命の境界を確定する装置であり、あくまでもそれによって「操作してはならない不可侵の生命の基底という観念」が保持されるというポジティブな役割を果たすことになる(という趣旨だと思う)。

 

聞きながら思ったこと。ではそうした生命とただの命の区別、区分が保持される限り、つねに生命倫理から排除される命があるということだ。倫理の外部で、いわば生きるに値しない命が、再び倫理によって回収され、「尊厳死」や「死ぬ権利」といった言葉遣いによって、何かしら意義あることを言ったかのような錯覚に陥る人間の傲慢さ、そうしたきな臭い話とその趨勢についてはこれまでにさんざん言われてきていることなので今更指摘するまでもない。

ともあれ、そうした生命とただの命の区別を保持するならば、その区別を生産する「生命の価値づけ」は一体誰によって、あるいは何によって行われているのか。端的に言って、「生命の価値づけ」を誰が(何が)価値づけているのか。ルブラン氏はフーコーとカンギレムの専門ということなので、おそらくはこうした質問をしても、そうした権力主体的な問いの立て方は誤りで、「誰でもない何か」「政治的、行政的、国家間的、家族的etc...」という多領域にわたる「力」の関係性によるということになるのだろう。

 

ただ、あえて「生命の価値づけ」という概念を持ってくることに意味はある。生政治的、関係主義的な権力像、すなわち、唯一、固定的な権力の中心を措定しないような権力関係は、ある種、現在の権力像を正しく表現している。しかしこの権力像がより重要なのは、「ああ、見えない権力に取り囲まれて恐いなあ」で話が終わらないということにある。つまり、権力や抑圧の中心がなく、それが誰のものでもないということは、結果的に、その権力や抑圧の中心をすべての人間が担いうるということになる。言い換えると、人々が権力や抑圧に従うのは、誰かからの強制によってではなく、当の被抑圧者自身が欲しているからであり(欲望)、より穏やかに言えば、人々は抑圧されることを喜んで許容していることに必然的にならざるを得ないということだ。経済的に、経済産業的に、財政的に、国家間の正常化のために、教育のために、未来の子供たちのために「仕方がない」という形で、人々は喜んで権力に従属し、進んで抑圧されるし、そうされることを結果的に良しとする。ネガティブに言えば、ここに介入する(生じている)のが生権力(bio-pouvoir)だということだ。

この状況であえて「生命の価値づけ」について語ることは、仮象的にでもそこに権力の中心を見取る可能性を与えるのであって、その意味での理論的価値はあると思う。(これがルブラン氏の主意や思惑に適っているかどうかは定かではない)