雑感

 

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

 

 想定外であった。河出ブックスでしかも講義調で書かれているということなので、もっと簡易的(大衆的)な内容かと思っていた。なんのなんの、綿密に準備された『差異と反復』『アンチ・オイディプス』論である。しかし、それ以上に、ここまで小泉氏が自らの手の内を明かしたものは、かつてなかったのではないか(要するに、小泉氏がこれまで精神分析・医学関連の運動、著作、法制度の歴史的経緯、さらにはマルクス主義関連の運動、著作、学術的経緯をどのように経てきたのかを本書は丁寧に伝えている)。思われている以上に、相当の決心を持って書いておられると思う。それだけに安易に感想や意見を述べるのは難しい、というか控えるべきだと思う。

ただ、ひとつだけ述べておくならば、おそらく本書でもまだ(あえて)記されていないことがある。精神・心の病をもつとされる者(本書ではスギゾイドサイコパス)を、強制収容(治療)でも、ノーマライゼーションでもない形で、では実際にどうするのか、そのオルタナティブを(あえて)記していない(まだ「明かしていない」)と思う。正確に言えば、強制収容でも、ノーマライゼイションでもない形で、彼らと「うまくやっていた」時代について、つまり、小泉氏を含むかつての日本人が経験していた時代について、そこで実際なにが生じていたのか、それが今どのような意味を持つのかについて(あえて)記していない。そのために必要な、その歴史的、精神史的、概念史的考察がすでに準備されているのかもしれないし、すでに書き始めておられるのかもしれない。あるいは、再び、後進の世代に課題として投げられるのかもしれない。その意味でも、やはり、一読しただけであれこれ言えるような本ではない。

 

あと、もし博論執筆前にこれを読んでいたら、僕は自分の論文を書き上げられなかったかもしれない。自分が書いた言葉で言わざるをえないが、『差異と反復』、『意味の論理学』、(少なくとも部分的には)『アンチ・オイディプス』は分裂病を臨床的実体に還元していた。しかし、これは『千のプラトー』に至って完全に捨てられる。これを博論では、脱人間主義から非人間主義への変遷として記した。そして、これにともない全景化してきたのがドゥルーズに固有の「自然」(『ドゥルーズと狂気』の言い方で言えば、「第一の自然」)であったと解した。もちろん、意図的に多くの論点を捨象したとはいえ、『ドゥルーズと狂気』を読めば、この見立てがあまりに「ナイーブ」なものであることが分かる。もしかすると、これをテーゼとして博論で打ち出すことを逡巡していたかもしれない。もっと「自然」の内実を詰める必要があるということだ。

ともあれ、自分が今後論じたい(論じるべき)方向性について、この著作によって気づかされた部分は大いにある(気づかされたというか再認・確信できた)。このエントリーがこのように何を伝えたいのか分からない歯切れの悪い文章になっているのは、要するに、これから言語化すべき問題点、方向性があまりに多く入り交じっているためである。ご了承ください。